松本馨さんが、妻の死と失明というどん底から立ち直るきっかけを与えた関根正雄の「預言と福音」にはどのようなことが書かれていたのだろうか。ここで、1952年10月の『預言と福音』第27号に、「福音の再発見」と題した関根正雄の文を読んでみたい。
「小さき声」の創刊号に掲載された「水先案内人」は、無信仰の「どん底」にあった自己を生き返らせたキリスト、自己自身よりも自己にとって根源的な「命の命」であるキリストを詠んだものであるし、「小さき声」の第二号に掲載されている、「みみずの歌」という詩は、そのような人格を喪失した自己の姿、「虫けら」としての「私」を詠んだものであろう。
関根正雄は「十字架を通らざる聖霊信仰」に最終的に訣別した、と言った。それは異教的な霊に満たされた神秘主義と訣別したということであろう。それでは、「十字架を通った聖霊信仰」、つまり真にキリスト教的な聖霊信仰とはどのようなものであるのか。
松本馨の「みみずの歌」の最終連の六行を見てみよう。
風がその空洞を吹き抜ける。
その度にお前は一管の笛となって泣く
だからお前は土を喰う
ああ天井はやぶれ
矢で心臓を射ぬかれた
鳩が落ちてくる。
ここにでてくる、「空洞」という言葉に注意したい。
カール・バルトは、「ロマ書」のなかで、キリスト者にとってイエスとは、我々の既知の平面を穿つ「弾孔ないし空洞」としてしか見えない、といっている。キリストの言葉がそこを通過し、そこを通って響き渡る空洞である。
みみずの喰らう「土」は、目の見えぬ作者がそこにおいて生きている世俗の世界を表し、作者は、「空洞」として、自己を吹き抜けていく聖霊(聖書では風と同じ言葉)によって一個の「笛」となる。そのような笛の奏でる「みみずの歌」こそが、松本馨が「小さき声」のなかで詠う詩なのである。
「みみずの歌」の最後の三行は、とくに、鮮烈な詩的印象を与える。「矢で心臓を射抜かれた」は、「鳩」を形容するものと読むか、鳩が落ちてくる以前の作者の状態を形容するものと読むか、微妙なところであるが、実際は二つの意味が重ね合わされているような感覚がある。作者にとっては、自己自身が矢(神の怒りの象徴)で致命傷を負ったと言う経験に、十字架のイエスと同じように致命傷を負って「落ちてくる鳩」というイメージが重ね合わされている。 その「落ちてくる鳩」のイメージこそ、みみずの身体を突きぬけ、土の暗闇の中で呻吟している作者の生のただなかで、受難のイエスと一つである聖霊の通過した徴ではないだろうか。
絶対の無力と不信の只中で私はもう一度十字架を仰いだ。私はそこにかっての回心の日の如く迫り来る神の義を見る事は出来なかった。私がそこに見出したものは不義の蔽いに隠された神の義であり、弱さの蔽いに隠された神の力であった。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を通して「我は虫にして人に非ず」(詩篇二二ノ一、六)という言葉の中に死んでいった神の子の姿であった。限りなく低くされた私は不義と無力と「虫」の姿を通してのみ、神の義と力と更に生けるキリスト御自身を再び見出したのである。如何にして私はそのように隠された蔽いの下に一切を見出すことが出来たか。それこそは実にキリストの御霊の力であった。その事は又私にとって先の発見以上の大なる発見であった。私はそれによって十字架を通らざる聖霊の信仰に最後的に訣別することが出来たのである。関根正雄は、第二回目の回心(十字架のイエスによって、これまでの自己の宗教性が否定され、自己の不義と無力と無信仰に怖れ戦くことを通して、自己に由来しない信仰をイエスを通して与えられるという経験)を述べるにさいして、自己の人格性の完全なる喪失を、詩編の作者と同じく「我は虫にして人に非ず」と言い表す。いうなれば、これまで自分が、自己の内にある信仰と信じてきたものが徹底的に崩壊したときに、そのような「無信仰」なる我のために、そのような無信仰の底の底に、十字架に付けられたイエス御自身が、私のために、低く降りたもうた、という事実が、如実に体験されたということ、それを「無信仰の信仰」と関根正雄は表現したのである。
「小さき声」の創刊号に掲載された「水先案内人」は、無信仰の「どん底」にあった自己を生き返らせたキリスト、自己自身よりも自己にとって根源的な「命の命」であるキリストを詠んだものであるし、「小さき声」の第二号に掲載されている、「みみずの歌」という詩は、そのような人格を喪失した自己の姿、「虫けら」としての「私」を詠んだものであろう。
関根正雄は「十字架を通らざる聖霊信仰」に最終的に訣別した、と言った。それは異教的な霊に満たされた神秘主義と訣別したということであろう。それでは、「十字架を通った聖霊信仰」、つまり真にキリスト教的な聖霊信仰とはどのようなものであるのか。
松本馨の「みみずの歌」の最終連の六行を見てみよう。
風がその空洞を吹き抜ける。
その度にお前は一管の笛となって泣く
だからお前は土を喰う
ああ天井はやぶれ
矢で心臓を射ぬかれた
鳩が落ちてくる。
ここにでてくる、「空洞」という言葉に注意したい。
カール・バルトは、「ロマ書」のなかで、キリスト者にとってイエスとは、我々の既知の平面を穿つ「弾孔ないし空洞」としてしか見えない、といっている。キリストの言葉がそこを通過し、そこを通って響き渡る空洞である。
みみずの喰らう「土」は、目の見えぬ作者がそこにおいて生きている世俗の世界を表し、作者は、「空洞」として、自己を吹き抜けていく聖霊(聖書では風と同じ言葉)によって一個の「笛」となる。そのような笛の奏でる「みみずの歌」こそが、松本馨が「小さき声」のなかで詠う詩なのである。
「みみずの歌」の最後の三行は、とくに、鮮烈な詩的印象を与える。「矢で心臓を射抜かれた」は、「鳩」を形容するものと読むか、鳩が落ちてくる以前の作者の状態を形容するものと読むか、微妙なところであるが、実際は二つの意味が重ね合わされているような感覚がある。作者にとっては、自己自身が矢(神の怒りの象徴)で致命傷を負ったと言う経験に、十字架のイエスと同じように致命傷を負って「落ちてくる鳩」というイメージが重ね合わされている。 その「落ちてくる鳩」のイメージこそ、みみずの身体を突きぬけ、土の暗闇の中で呻吟している作者の生のただなかで、受難のイエスと一つである聖霊の通過した徴ではないだろうか。