このブログのタイトルは「プロセス日誌」であるが、「プロセス」とはどんな意味なのか、と聞かれることがある。最近、感ずるところがあって、「プロセス」というカタカナ語を、多くの文脈で「歴程」という日本語に置換えるようにしている。
ヒントは、中華民国の「方東美」研究所の所長であるSuncrates氏が、ホワイトヘッドの著作に言及するときに「歴程」の語を使っていたのに示唆されたのである。さすがに、中国人は文字について良いセンスをもっているなと実感した。
「歴程」とは、日本語ではさらに別の含意がある。それは特に戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもある。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。
「過程」という日本語には、「歴程」と違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。
ところがホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、初めと終わりの中間にある「過ぎゆくもの」のみを表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。
我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。
我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世界とその創造的要素である個物(それをホワイトヘッドは活動的存在actual entityと呼ぶ)にほかならない。
それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか。これが歴程の哲学の一つの主題である。
2 「創造」とは何か
「無からの創造」はキリスト教の世界観の根柢にあるものであるが、これに対して「無からは何も生まれない」とはアリストテレスに代表される希臘哲学の根本原理である。どちら正しいか、答えは簡単な二者択一では与えられない。なぜなら、答えるものが如何なる立場に立っているか、この問そのものが如何なる文脈でたてられたものであるか、と云うことが、ここで問題になるからである。
近代科学に創造と云うことがあるであろうか。實は、ガリレオやニュートンに代表される近代科学のボキャブラリーには、決定的に不足している概念がある。それは、「創造」である。
たとえば、近代自然科学の基礎をなす物理学の基本法則は保存則である。これは時間の経過によって影響を受けない普遍性を表すものであるが、保存則は、物理法則が時間座標と空間座標の座標変換によって不変であるべきであるという要請からアプリオリに同室できるものなのである。したがって、物理法則は時間軸の未来と過去の反転に関して対称性を保持すべきと言う大前提のもとに法則が書かれているのであるから、もともと時間に対して非対称な構造を持つ「創造」という出来事を表現することは出来ないのである。言い換えれば、近代物理学の世界には、時間座標はあっても時間はないと言っても良い。
しかしながら、20世紀の宇宙論はビッグバーン宇宙論の観測的検証によって、宇宙の進化をを主題とせざるを得なくなり、インフレーション理論以後、「無からの創造」は物理学ではむしろ正統説となってきたといえるであろう。
無からはなにも生じないのではなく、無からの創造が語れるのは、無そのものが創造的であるからである。
「創造的無」ないし「能造的無」という概念は、京都学派の久松真一が「東洋的無」という論文の中で提示した概念であるが、いまや、それは現代物理学の最先端の課題であるに他ならない。
ヒントは、中華民国の「方東美」研究所の所長であるSuncrates氏が、ホワイトヘッドの著作に言及するときに「歴程」の語を使っていたのに示唆されたのである。さすがに、中国人は文字について良いセンスをもっているなと実感した。
「歴程」とは、日本語ではさらに別の含意がある。それは特に戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもある。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。
「過程」という日本語には、「歴程」と違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。
ところがホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、初めと終わりの中間にある「過ぎゆくもの」のみを表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。
我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。
我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世界とその創造的要素である個物(それをホワイトヘッドは活動的存在actual entityと呼ぶ)にほかならない。
それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか。これが歴程の哲学の一つの主題である。
2 「創造」とは何か
「無からの創造」はキリスト教の世界観の根柢にあるものであるが、これに対して「無からは何も生まれない」とはアリストテレスに代表される希臘哲学の根本原理である。どちら正しいか、答えは簡単な二者択一では与えられない。なぜなら、答えるものが如何なる立場に立っているか、この問そのものが如何なる文脈でたてられたものであるか、と云うことが、ここで問題になるからである。
近代科学に創造と云うことがあるであろうか。實は、ガリレオやニュートンに代表される近代科学のボキャブラリーには、決定的に不足している概念がある。それは、「創造」である。
たとえば、近代自然科学の基礎をなす物理学の基本法則は保存則である。これは時間の経過によって影響を受けない普遍性を表すものであるが、保存則は、物理法則が時間座標と空間座標の座標変換によって不変であるべきであるという要請からアプリオリに同室できるものなのである。したがって、物理法則は時間軸の未来と過去の反転に関して対称性を保持すべきと言う大前提のもとに法則が書かれているのであるから、もともと時間に対して非対称な構造を持つ「創造」という出来事を表現することは出来ないのである。言い換えれば、近代物理学の世界には、時間座標はあっても時間はないと言っても良い。
しかしながら、20世紀の宇宙論はビッグバーン宇宙論の観測的検証によって、宇宙の進化をを主題とせざるを得なくなり、インフレーション理論以後、「無からの創造」は物理学ではむしろ正統説となってきたといえるであろう。
無からはなにも生じないのではなく、無からの創造が語れるのは、無そのものが創造的であるからである。
「創造的無」ないし「能造的無」という概念は、京都学派の久松真一が「東洋的無」という論文の中で提示した概念であるが、いまや、それは現代物理学の最先端の課題であるに他ならない。