松山櫨(はぜ)復活奮闘日記

失われてしまった松山櫨の景観を復活させようと奮闘していく日々の記録。

和ろうそくを灯す時 その6

2009-05-29 22:15:29 | 和ろうそくを灯す時
仏教のお経に「世の中は、心が造る」という言葉があるそうです。私たちの周囲にあるものは全て、自分の心次第で極楽にもなるし、地獄にもなるというものです。

その説話を紹介したサイトから引用すると…

------------引用
「ある人が地獄へ行って見ました。大きな釜にうどんが湯がかれ、たくさんの人が鍋の周りを囲んでいます。よく見れば、手には二メートルもある長い箸を持っています。皆が先を争って箸を突っ込み、うどんをつかもうとするものの、箸が長すぎて食べることが出来ません。箸で相手を突つき、うどんの奪い合いが始まりました。うどんは鍋から飛び散り、ついには殴り合いの喧嘩になります。これはまさに地獄だと思いました。」

「次に、極楽へ行って見ると、全く同じように、大きな釜にうどんが湯がかれ、たくさんの人が鍋の周りを囲んでいました。手には長い箸を持っています。しかし、先ほどとはどうも様子が違うのです。長い箸でうどんをつかんだら、釜の反対側にいる人の口元に運んで「お先にどうぞ」と食べさせてあげるのです。すると今度は、向こう側の人が同じように自分に食べさせてくれます。皆が仲良くうどんを食べているのです。なるほど、これこそ極楽だと合点して戻ったということです。」 
--------------引用おわり


この説話を紹介したのは、毎日の胸三寸で幸福になるかどうかを自分が決めてるんだよ、というありがたい話に続く…わけじゃありません。

実は私は全く別の事に気づいてハッとしたんです。まるで暗闇に光が差したみたいに答えが見えました。…というより、今まで答えは見えていたのに気づかなかっただけで、ずっと前から答えは目の前にあったんですね。

その答えとは、つまるところ和ろうそくはこの説話で言う「長すぎる箸」だったんですよ。

自分が自分のためだけに使うものではなく、他の人にお供えすることで灯すことができ、そしていつか自分ために誰かがお供えして灯してくれるもの。それが和ろうそくの真実の姿だったんです。

今まで私は和ろうそくというものを、どこかぼんやりとした概念でアクセサリーとか小物のようなものだという認識で捉えていました。しかし自分のために買うアクセサリーや小物と、他人のために灯す和ろうそくとは全く別の次元のものです。

だからたまたま自分が気に入って買った場合には、もったいなく感じて灯せずにタンスの奥にしまい込んでしまうんですね。他人のために、そして灯すべき時にお供えすることで、和ろうそくに火は灯され、他人も自分も心癒されていく。和ろうそくとはそういう使い方をするものだったんです。

櫨蝋屋さんにならって私も始めたお供え用ですが、この説話を読んでますます確信しました。

とにかくまずは周囲の家族とか知り合いからです。私は法事の日がやってくる度に、5本入りの袋にセロテープでのしを貼りながら、
「これを持って行って!きっと亡くなった人も遺族も喜ぶから!」
と勢い込んで渡しました。

しかし、自分の確たる思いとは裏腹に、やっぱり周囲の反応はかなりイマイチでした。

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