25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ややこしい問題

2014年12月12日 | 社会・経済・政治
 僕はとりたてて仏教信者ではなく、慣習上の檀家ではある。僕の両親は慣習を重んじる世代だったので、それは否定をすることはなく、なにかと菩提寺の世話になっている。
 今回、僕の「解決屋」の助っ人として、ある家のいろいろな処分を頼まれたので、調べていると、亡くなった方はキリスト教プロテスタントであり、先になくなった夫がプロテスタントに改宗し、また先に亡くなった息子さんも親の意思でプロテスタントになっている。その家に記念碑があり、そこには三人の骨も一部分納められているということがわかった。その家には先祖代々の仏教の位牌もあり、お墓も近くにあり、事は複雑なのである。骨の半分は仏教のお墓に、あとの半分はキリスト教の記念碑にいれているのである。
 仏教では戒名などという奇妙な「信士とか居士とか、院とかのヒエラルキーがあり、それによって支払うお金も違ってくる。家を売るときに仏壇でもあれば、お経をあげてもらい「性根抜き」などという儀式もある。三回忌、7回忌など故人を偲ぶ法事もある。
 僕は仏教徒とは思っていなく、お経の意味もほとんど分からず、意味のわからないお経を唱えてもらってもありがたみはなく、みなそうしているからしているだけのことで、本当は戒名のことも檀家のことも奇妙なことだと思っている。
 
 ちなみにプロテスタントには洗礼名はなく、お墓に霊はなく、故人の霊は天上にいるということで、「性根抜き(魂抜きともいう)」は本来しなくてもよい。しかし日本人のクリスチャンはやはりしたがる人が多いそうである。

 宗教人はそれでいいのだが、宗教に関係ない人には、偲びたい人がだれでも記名ができる何か墓や記念碑とも違うような形の、何かがあればとても僕にはすっきりする。それを家に置き、また故人を知る遠くにいる人はインターネットからでも偲べるのがよいように思う。

 さて多くの問題は、故人がもっているとされる農地や宅地、雑種地、山林などの相続の問題である。登記が先々代からのものになっていたり、農地を許可を得ず、勝手に平らな土地にしてしまい、そこに登記しないで建物をたててしまっていることもある。土地を分筆しているのに申し出ていない。公図にも記載されちないこともある。土地の境界線がわからない。土地と建物が別名義になっている場合もある。山林で言えば、山林登記だけでなく、立木登記をしていることもある。相続人のひとりが外国にいる場合もある。遺言書があればなんなくいくものがそれがないため、遺産分割協議書をとりまとめるのも厄介な問題となる。戸籍の附票も必要になる。また故人の出生から脂肪までの除籍簿も必要にもなってくる。遠いところにいる人は司法書士に委任状をだして、除籍簿をとってもらう必要もあるし、故人に貯金でもあれば、遺産分割協議書や除籍簿も必要になる。

 ことことさように、死んでいくときはあとで面倒なことにならないように、ちゃんとしておくべきだと思うのである。普通は司法書士とか、行政書士とか、土地家屋調査士とか、宅地建物取引主任などがやってくれるのであろうが、夜逃げをしていたり、敷地内に別名義の土地があったり、その不動産の管理を近所の人がしていたり、抵当権が設定されていたりと、相当に難しく、ややこしく、面倒なものが多々ある。
 東京に空家が約20万戸あり、全国規模で言えば、100万戸ぐらいはありそうである。おそらく複雑な経緯があって、そのままで残っているのもその中には多くあるのだろう。

 各免許業者に行く前に、それらの整備をする人が、いよいよこの成熟期を過ぎた日本では必要なのではないかと思えてくる。すっきりさせ、手配もする業者、いわば隙間産業である。