25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ブラームス ハンガリー舞曲 1番

2014年12月13日 | 映画
渋谷の「タワーレコード」の7階はクラシック音楽CDばかりが集まった売り場である。7階に到着すると、今まで聴いたことのない、軽快だけれども哀愁に満ちて、脳を揺らし、引っ張るような舞曲が大きな音でかかってきた。僕はすぐにカウンターの係り員に、今かかっている曲は何か、と尋ねると、そこに書いてあります、と言う。見ると。「ブラームス ハンガリー舞曲第1番」とある。早速購入すると、その盤には、その他に「ピアノ協奏曲第1番」という作品も入っていた。
 ブラームスの曲はバック音楽などで流しておくような音楽ではない。聞き手の心をつかみにくるのである。ヴェートーベンから始まるロマン派の曲とうのは、「聴け」といわんばかりの曲作りになっている。こころを掻きむしってくることもあう。
 ハンガリー舞曲は学校で習ったのは5番であり、21番まであるらしい。この1番は素晴らしい。ハンガリーのジプシーの音楽をブラームスが応用した。
 こんなところから始まって、クラシック音楽を聴いてみようと思い始めたのだった。
 モーツアルトのピアノ協奏曲20番を聴いた。出だしが感情を突き動かしてくる。これまた素晴らしいと思い、しばらくして、ヴェートーベンのピアノ協奏曲3番を聞くと、モーツアルトの20番の影響があり、まだ弦楽器の使い方などはときどきモーツアルトっぽいところがある。ヴェートーベンの後期になてくるとモーツアルト的なところは後退している。次の時代のブラームスになると全くモーツアルト的な弦楽器の手法は全くない。代わりにヴェートーベンの影響が多大になってくる。
 このように人から人へと影響を与えながら、徐々に音楽が変わっていくのを鑑賞するのもひとつのクラシックの楽しみ方ではある。

 クラシック音楽というのは楽譜が書かれて、初演から今日に至るまで、様々な指揮者や演奏家に演奏され、その指揮者はどのように作品を表現するか、また演奏者はどのように表現するか、それぞれの違いがあって、それを鑑賞するのも楽しみ方のひとつである。

 僕のような初心者にはまだわからない聴き方というのもあるのだろう。

 僕自身の音楽史をたどってみると、日本の歌謡曲、やがてキャロルキングなどを聴き始めた頃に、印象派のドビュッシーとかラベルをよく聴き、バッハもよく聴いた。やがてまた矢沢永吉やサザンオールスターズなどを聴き、歌謡曲は昭和の終わりまではよく聴いた。
 アマリアロドリゲスのファドを知り、ファドにはまり、モルナのセサリアエボラに惚れ込み、ショーロクラブにも惚れ込み、民族音楽も結構物色した。ジャズも結構聴いた。そしてモーツアルトの「レクイエム」を知ったのだった。それでもジャズもレクイエムもただよかったのでなんとなく寝床で聞くぐらいであった。それがワグナーによって聞く態度が変わった。まだ2年ほど前のことで、映画を真剣に見るように音楽を真剣に聴いてみようと思ったのは今年のことだ。

 極上の小説を読み、音楽を聴き、絵画集を見て何かを思い、酒を飲むなどというのはいわば「至福の時」でもある。そんな年齢になってきたのか、ますますこの世から避けたいと思い始めているのかわからないが、手元には「100年予測」という本があったり、「迫りくる日本経済の崩壊」などという本もテーブルにある。昨日は友人から「ほんとうの身体のほぐし方」というDVDも借りた。まあこんな調子で日々を過ごしている。