25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

魚2種

2016年01月21日 | 日記

  尾鷲から近年無くなってしまった魚が2つある。ひとつは少し脂のあるサンマである。今年もひどいものだった。サンマはやせているだけでなく、寸法も短い。これにはショックを受ける。

  もうひとつは片口イワシである。2月と3月初旬の片口イワシは適当に脂がのり、一夜干しにして、焼いて食べるととても美味しいのだが、このイワシもサンマと同様、とれなくなった。店に出てくるのはガサガサとした不味いイワシである。

たぶん海水の温度が高い状態がここ数年続いているのだろう。これは僕にとっては大問題で、2つがないだけで、ぼくにとっての尾鷲の価値はぐぐっと下がるのである。

今年の片口イワシに期待しているが、今年もダメなら、もっと北の方で探す必要があるかもしれない。

  尾鷲はずいぶんと変わったが、食べるものまで変わるとは、思ってもいなかった。


楽しみなこと心配なこと

2016年01月21日 | 日記

 琴奨菊が強いので、ハラハラしている。白鵬を倒したが、小さな身体で動きのすばやい日馬富士に勝てるものか。

 もうひとり注目している力士がいる。彼が高校で柔道をやっていて、相撲を知らないまま、相撲界にスカウトされた。入門したのは元旭天鵬の部屋だった。彼の一年を追う、ドキュメンタリーをテレビで見た。その力士はもうすでに25歳は過ぎているはずだ。旭大星という。十両の下のほうにいる。彼は相撲の修業が辛くて部屋を黙って出て行ったことがあった。故郷で思い治して、また戻った。彼には故郷の後援会もあり、期待されていた。十両はたぶん3回目だと思う。十両になったかと思うと、よく場所落ちてしまう。

 身体にも肉がついてきていて、ようやく関取らしい身体になっている。小さいときの相撲勘のようなものがなかったのだろう。小学生や中学生ぐらいのときに相撲を取っていればもっと違うのかも知れない。柔道から相撲に転じると柔道の癖がわざわいする。

 昨晩、「内蔵の時間」という本を読んだ。内蔵は「考える」、「連携する」、「記憶する」ということが近年わかってきている。故三木成夫の形態学からの考えが裏付けされていた。

 翌日、実家に行くと、腹が痛い、という。「便秘なん?」と訊くと、「違う」という。「下痢?」と訊いても「違う」という。う~ん、と考えて、昨日の「内蔵の時間」の中で、「腎臓の機能というのは急降下で低下する。そのときに腎臓に代わってサインを出すのは腸である、書いていた。母親の腎臓は検査ではたしかにやや機能が低下していた。それが腸がサインを出さなければならないほどになったのだろうか、と心配になった。今日の様子を見て、病院に連れていくかどうか、を判断しようと、ときどき様子を訊いている。

 楽しみも心配も同時にくるものだ。母のことは今日は様子見と決め、琴奨菊対あ日馬富士戦を楽しみにしている。旭大星も黒星が先行している。頑張れと言いたい。


尾崎放哉の句

2016年01月21日 | 文学 思想

  尾崎放哉の句を幾つか

 

 咳をしても一人

なんと丸い月が出たよ窓

松かさそつくり火になった

とつぷり暮れて足を洗つている

墓のうらに廻る

いれものがない両手でうける

  放哉の自由律俳句。何度読んでも寂しい孤独感をもらうことになる。こんなに僕は今健康だというのに。このさすらいの俳人は享年42歳。この放哉役を渥美清がやりたかったらしい。しかし、トラさんのイメージが邪魔した。残念だったろう。酒を飲むと始末におえない放哉のようだった。吉村昭が「海も暮れきぬ」で墨画のように生涯を描いている。電子ブックの「青空文庫」では彼の句集全部読むことができる。

すばらしい乳房だ蚊が居る

はるの山のうしろからけむりが出だした