25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

股割り

2016年02月01日 | 日記

 相撲取りになりたい少年を主人公にして、小説を書こうと思い立ち、出だしはスムーズに滑り出した。ところが途中から群像劇のようになってしまい、ただ上っ面のストーリーだけが進行していき、言葉も指示言語だけのようになってきた。朝日新聞に沢木耕太郎が連載している小説「春に散る」をいつも苦々しく読み、一方で、同じ新聞に連載されている夏目漱石の「門」を読んでいると、いつも沢木耕太郎の文を貶している自分がいる。そんな自分が同じようなものを書いていると思うと、考え込んでしまい、原稿用紙ですで200枚くらいは書いたものを捨てて、違うアプローチの仕方がないものか、また考え込んでしまう。

 それで、寝床で、村上春樹の二度か、三度ほど読んだ、「東京奇譚集」を拾い読みしていると、さすがに短編は上手い、表現力もさすがだ、と思うと、余計、どう書いていけばわからなくなってきて、頭の中で、ああでもない、こうでもないと思っている。

 エンターテイメント小説として仕上げたいのではない。そういう小説は山ほどある。トラウマ小説も書きたくない。純粋に相撲というものを追ってみたいのだが、才能がないのかなあ、と思ってしまう。

 実は才能があるかどうかということで、小説など書き始めたのではなかった。あくまでも自己慰安のためであった。十作ほど作ってみて、ちょっとした興味本位で、書き始めたら、ドツボにはまってしまったというわけだ。

 昨日、骨盤を前傾にしたり、後傾にしたり、股関節を旋回したりということを家のフロアでやっていたら、夜、骨盤周辺の筋肉がやや痛んだ。現在の相撲取りがやっている「股割り」を動画で見ていると、あれは「股裂き」であって、本物の「股割り」ではないような気がする。本物の「股割り」は股関節を前に重心移動させるもので、開脚180度にして、骨盤を立て、股関節をくるりと回して(腹部が床につき、胸がつき、顔は伏せることなく進むべく前面をみる)重心移動させるものではないか。つまり筋をゴムのように伸ばしてしまうストレッチェではなく、関節の運動と考えたほうがいいのではないか、と思う。

 ヨガをやっている人たちも「股割り」ができる。インストラクターの「股割り」を見ても、「構造動作トレーニングの動画を見ていても、やはり筋のストレッチではなく、股関節のスムーズに動かす練習であることがわかる。

 相撲取りに膝の怪我が多いのは、股関節の使い方ができていないからではないか、と疑ってしまう。股関節が使えていたら、膝への負担が少なくなると思う。ただでさえも体重のある力士が膝に負担を掛けているのである。六場所制だから治療機関が少ない。

 なんだかんだと考えたり、見たりしている毎日である。準備運動って必要なのだろうかとか、全身の筋肉の協調を使うようにするには、どんな筋肉トレーニングが必要なのかとか、興味は尽きないのではある。