25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

娘たちがくる

2016年02月23日 | 日記

  娘とその子供二人が4日前から来ていて騒々しいので、自分の部屋に引きこもったりする。1歳になった男の子(ぼくの孫であるが)は母親が少し離れると泣き出して、これには参ったのであるが、4日目になると少々離れても泣かなくなった。赤ちゃんというのはよほど母親が頼りなのだろう。この母親との密着感はもちろん歳をとっていくにしたがって、脳のブローカー言語野に「母親の大きな笑顔の像」が定着し、幼稚園にでもいけるようになってくる。

 この時期、母親の「不安」や「虐待」「無視」「回避」「逃避」などがあると乳児のブローカー言語野に、不安や恐れの像が定着してしまう。

 これまで母親をひとり占めができていた4歳の娘は、この一年でずいぶん顔の表情が変わった。弟にかましすぎると、他人が弟について話すとちょっと微妙な顔をする。自分も弟のことを十分に相手をし、可愛がりもするのだが、関係性を意識しているように見える。

 一歳の孫は今、「舐め回し」の時期である。なんでも口にする。僕は「舐め回しの時期は大事な時期で、腸にたいしても抵抗菌をつくるために、よほど潔癖にするな」と言っている。

 小説もできあがって、「すばる」に出そうか、「相撲雑誌」に出そうか、考えている。「すばる」は3月末が締切である。

 次の小説を書き始めた。書けるだけ書きまくっておくのである。

 庭の木蓮が咲き始めた。これが全部散るとずいぶん暖かくなってくる。たぶん散る頃に娘たちは帰るのだろう。いつまでもムコさんをひとりにしておくわけにはいかないことだ。多くのことがありすぎて、休憩に来たのだから、存分に休憩して、帰ってくれたらよい。

 まだ僕らは帰って寂しいとか、そういうことはない。