25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

後悔すること

2018年04月25日 | 文学 思想
 外に出て外食をすると知り合い出会ったりする。そして社会的な参加もしているような気もする。岡田さんから面白い話を聞いた。アメリカでの85歳以上の人へのアンケートで、「後悔していることは何か」と問うたところ、なんと「他人の目を気にしすぎたこと」という回答が一番多かったらしい。えっ、と思った。シアトルにいた頃なんて隣家とは距離もあり、世間のようなものは存在しないように思われた。日本列島人ならその100倍や1000倍気を使っているのではないかと思う。チャレンジをしなかったことを悔いている人も多かったらしい。
 尾鷲など、狭い世間の中であきれるほど用心深くなっている人を何人も見ている。85歳過ぎたら、アメリカ人のように後悔するのだろうか。もしかしたら意識さえしていないのかもしれない。
 コミュニティーで生きる限り、個人幻想よりも共同幻想を気にするということなのだろう。いずれにせよ、人間というものの関係性で生きる宿命の芯のところは人類程度の差こそあれ同じことなのだろう。
 しかしながら後悔の一番にもってくるのは、85歳以上の人は自覚客観化できているということだ。
 アメリカ村映画を観ていると映画の世界がアメリカのように思えてくるが、この話で映画とは違うアメリカ人の姿が浮かんでくる。
 このようなアンケートをとる側も面白い。日本列島人ならどう答えるうのだろう。
 ぼくだったら、「もっと慎重でありたかった」と答える。ロンドンにいた頃ガールフレンド、キャシーの連絡先をノートに記しておかなかったと、一人勝ってに思い込んでいた。手紙を書きたかったことが幾度とあった。しかしそれも叶わぬことだと思い込んでいた。
 とことが一週間前に、夜中に突然思い立って、部屋の片付けをしていたら、引き出しの中から、赤くて薄いメモ帳がでてきた。何が書いてあるのかペラペラとめくって最後のページにキャシーの自宅住所学生寮の住所、それぞれ電話番号が出てきたびっくりした。メモしていたのだ。ぼくはそれを不覚にも忘れてしまっていたのだ。これもぼくに慎重さがない証である。とても後悔している。30代、40代、50代と近況のやりとりができていたかもしれないのだ。
 迂闊さ、これがぼくの後悔である。