25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

知性の夜と男と

2018年04月13日 | 文学 思想
 土俵は神域、女の子は危ない、伝統である、土俵祭が行われるから神事である、どれも説得力がない。伝統を重んじ、女人禁制を貫きたいのなら、公益財団法人を返納すればよいだけのことである 

 これだけの行政不祥事が起きても、日本国民の3分の1はコアな自民党支持者である。だから政権も自民党の中での争いとなる。それに対抗するには野党連合しかないことだろう。

 よい大人が幼稚な精神性で知らぬ存ぜぬを押しとうそうとでぃている。テレビでみていても見苦しい。頭脳優秀、省庁中の一位などという意識が政治家、官僚、一般人にいたるまで支配されている限り、同じようなことが起きると思う。財務省の事務次官は優秀だったのかもしれないが、単なる58歳のオスというだけであった。知性とエロス。女性記者をみると言葉という知性で性的面白さを味わっていたのだろう。まあ、最低級のえらそうなオスだったのだろう。

 岡田さんのブログの意見に賛成だが、西部邁への自殺幇助で、ガクンと落胆した。江藤淳を見習えといいたいものだ。逆に吉本隆明のように最後までダラダラとでも生を生き抜けと言いたいものだ。この啓蒙家は自分のことを自分でできない人だったのだろう。百万語の言葉と論理を並べてもダメだ。結末が他者による手伝いによる自殺となれば、おしなべてそうなるではないか。
 ぼくはこの啓蒙家が自裁する、自裁すると、常日頃いい述べ、書き述べていたのを知っているので、フン、どう言うことだ? とケチをつけたくなる。
 p
 
  

 

ぼくの同級生の妹

2018年04月11日 | 日記
 中学時代に仲良く遊んでいた同級生には7つ下の妹がいた。この同級生の親は「クロ猫ドン」というバーをやっていた。中学時代、その同級生の男親に、2回スキーに連れていってもらった思い出がある。7つ下の娘はスキーにいくことはなかったが、日頃同級生の部屋には大きなステレオがあり、歌謡曲を聞きながら、ゴロゴロとして、たぶんふざけたり、たわいのない話をしていたときに妹が入ってくるのだった。その時の印象は明るく、陽気で、物を見る大きな目の焦点が合わないが、そこが可愛いらしかった。
 人に誘われてスナックに入ると、その娘がママさんとなって、カウンターの内側にいた。あら、とぼくの名前もおぼえていてくれた。38歳くらいに見える。上は天然のパーマらしく西洋人形のようにしていた。
 誘ってくれた人は「この方は全国尾鷲節コンクールの優勝者やで」と聞いてびっくりした。話をしていると、小さい頃から三味線、舞踊などの習い事をやってきたらしい。カラオケで尾鷲節やら伊勢音頭などを聞かせてもらった。彼女は人が変わるようにその民謡の世界に入って行った。こんな上手い歌手の歌はめったに聞けるもんじゃない、と思ったのだった。
 ぼくは歌謡曲しか歌えないが、客が歌っている時には彼女は身体をスイングさせて聞く。ボーッとしているわけではない。なんだか体が自然とswingしているようだ。それがぎこちなくするのではない。日本人はアメリカやブラジルやジャマイカの人のように体を揺らすことはめったにないから、この女性はどこで身に付けてたにだろう、と思う。そしてこちら側も体が揺れてくるのだ。
 娘には芸事をとあの親は思ったのだろう。人生はいろいろで、個人の歴史もなだらかな線ではない。あの頃からどんな人生をたどったのかは知らない。
 客との距離の取り方もよいものであった。上手言うわけでもなく、慣れたかのように笑顔で客に対応している。
 久しぶりに夜の世界で宝物のようなものを発見したと思った。しかも山崎も、竹鶴も、オールドパーも置いてあった。
 ぼくの同級生の兄貴も元気である、ということだった。


砂漠化

2018年04月10日 | 社会・経済・政治
 北京から航路でパオトーまで行き、そこから車でさらに内陸部、黄土高原に入った。砂ばかりである。その面積は日本列島より広い。北はゴビ砂漠と繋がっている。
内モンゴルの巨大企業がこの地の草原地帯からカシミアの生産と加工を始め、世界のカシミア市場の4、5割を占めるようになった。この企業は電気、石炭、セメント、ホテル、資源開発の子会社をもつまでに発展した。
 昔で言えば、群雄割拠の時代の豪族のような感じだ。何しろ巨大なのである。その発展の中で遊牧民は定住化した。山羊は植物の根っこまで食べてしまう。木は伐採されて燃料としているうちにゴビ砂漠に飲み込まれるように砂漠化した。現在もなお砂漠化の勢いはとまらず、北京にまで迫っている。
 この内モンゴルの南に黄河が横たわるように流れている。黄河から500メートルほど以内くらいは農業を行っていた。甘草のような漢方薬草を作っているところもあった。
 小麦粉くらいに細かければ砂はどうろをもすぐに飲み込んでしまう。
 砂漠に、簡易道路を作り、車を通させ、防砂提を作る。とりあえずそこからなのか、と思いながら帰国したのだった。あるいはまた、と考える。ある村があるとして、そこの村人に砂漠の砂を農耕可能な土に変える方法を教え、興味ある人たちから農地を作っていく。そんな広げ方もあることだろう。
 あれから、なんだかだとあって、計画はストップのままである。きっとチャンスは訪れる。今度岡田さんと中国人がやっている商社の人と岡田さんの紹介で会えそうである。

「人類の誕生」を絶賛する

2018年04月09日 | 文学 思想
 NHKスペシャル新企画「人類誕生」が映像で見える時代になってしみじみよかったと思う。「生命の誕生」も同じ感想であった。これまで書籍でしか読めなかったものが、いろいろな人の手によって、最先端の研究を紹介し、必要な部分をCGで映像化している。
20種ほどいた人類の中で、ホモサピエンスが生き残ったのはなぜか。
 理由は4つあった。余計なエネルギーを使わないで済む一夫一婦を作ったこと。仲間を形成して獲物を捕らえるようになったこと、骨膸を食べたりするのに、尖った石器を作れたこと、肉食だったのに、追いつめられた果てに魚や貝も食べてみる好奇心がわいたこと、を挙げた。
 「生命の誕生」「人類の誕生」も学校で見て感想を述べ合うのに、よいテキストではないか思ったのだった。
 こんな話を一つ一つの家庭から、または夫婦や、母から啓蒙と言ってみてもダメなような気がする。近くにいる人が、こうしなさい、人類ってこうなのよと説教しても、聞く耳を持たないのが人間でもある。このような場合、NHKスペシャルのようなものが客観性があり説得力も高い。
 生命を得た生物は、ヒトになるための精巧なプログラムを作っていった。哺乳類の仲間になっても弱い、存在だった。人類はそれを逆転していく。弱かったからこその発想であり、それが遺伝子に取り込まれていく。
 来週はいよいよネアンデルタール人とホモサピエンスとの生存競争が題材である。骨の化石を採掘し、それを判断し、組み立てていく現在の研究者にも驚く。
 頭や心が波立つようなNHKの企画に大絶賛である。
 

危ない社会

2018年04月08日 | 社会・経済・政治
 日銀の出口戦略について、民放のBSニュースなどで、トピックになるようになってきた。40%の国債を銀行から買い上げ、銀行は使い道もそんなになく、お金は日銀の当座預金に眠っている。それを吐き出させようとマイナス金利を導入した。
 銀行は逆に日銀に金利を払うというようになった。銀行は国債を買うのも手控え、儲け口がどこにあるのか必死であろう。ひとつにFXや株式投資もあるだろう。日銀は株にも手をだし、その額は24兆円である。日銀の動きで株式市場が動くようになっている。日銀が株をちょっとずつ売りにだすことも難しいほど日銀の動きに敏感である。
 統合政府という考え方があって、戦争中は政府の発行する国債を日銀が買っていた、これを財政ファイナンスという。軍事費に途方もなく使われた。国債というのは日本の場合国民の貯金を担保に政府が国民から借りるようなもので、矛盾である。だから結局、政府は借金がゼロに近づいてて、国民のお金は限りなく価値がなくなるということである。
 日銀も政府も同じだ、貸し借りをチャラにすればいいだけのことではないか、またぞろ戦前の日銀に戻るような発言をする自民党議員がいる。概ね、現政権はそんな考え方をしている。この考え方が反省され、日銀は独立性を保つようになった。200万人以上も犠牲の上に成り立ったのである。
 異次元の金融緩和は円高から円安効果を生み、輸出企業には有難い政策である、日銀ができるのは金融政策であって、財政政策や成長戦略は政治家の仕事である。異次元緩和をしてから、日本は成長産業を育成し、不必要な規制は撤廃し、産業の構造改革をもっと図るべきだった。安部政権はそれができなかった。
 すでに第四次産業革命が始まっている。第三次産業革命の時に日本のソニーやPanasonicなど世界的企業がついていけなかった。今度の第四次革命に車のAI化、EV化、水素燃料化も入ると思うが、既存のガソリン車とハイブリッド車をつくる職人の技能は違ってくるので日本の自動車産業も大丈夫なのかと心配する。
 日本に根強い製造業リスペクトは産業構造の変革に大きな障壁にもなり得る。今のまま、国債を買い続け、株を買っている状態が続けば、国債、株とも大暴落となる日がくる。外国人に買われたら、不安定になる。
 こんな時に復古主義の政権とは、いろいろな面で危ない、とぼくは思っている。

2018年04月07日 | 日記
 大気が少し冷たくなるととたんに咳が出る。医者に「レントゲンとりますか」と言われ、「
それは何のためですか」と訊くと、「肺癌をみるためです」と言った。笑いながら「いやいや結構です」と拒否した。普通問診といものがあるだろう。手掛かりのようなものだ。どんな時に咳が出るとか、呼吸は苦しいか、とかなんだかだである。それを訊くこともなく、いきなりレントゲンと言ったので、いきなり笑って誤魔化した。
 コメリに出かけた。藤の木を、3日前に見たので、もう二本買おうと思ったのだった。庭の一本だけのツルの伸び方を見ていると藤棚ができるまでに死んでしまうのではないか。単純にもう二本ほどあれば早いのではないかと他の藤棚を見物することもなく実行しようと思ったのだった。残念にもこの前売りに出されていた藤は全部売り切ってしまったという。「二週間ほどかかりますが、お取り寄せしまでょうか」と言ってくれたので、「頼みます」と連絡先を記入した。「50センチぐらいのでいいでうか。」「はい」「いくらぐらいまでならいいですか」と最後の質問に「い本一万円もしないででょ」「そうですね」「とにかくお金のことはかまわずに注文してください」わかりました。
 この前店にあったのは昨年ぼくが買ったのと同じくらいのサイズで30センチほどだった。それが長い日本のツルを一年の間に伸ばした。
 山茶花が終わったあと、木蓮が儚過ぎるほど咲いては散り、春一番に水仙が咲き、トサミズキが豪華に咲いた。続いて桃とレンギョウの花が咲いた。そぢて木瓜の花へと続いた。
 金魚やメダカは水温が上がったのだろう、冬の冬眠のような状態から一斉に元気に泳ぐようになり、餌を求めるようになった。稀の里も高安も元気に泳ぎ、稀の里が一番よく食べる。
 コメリではすでに夏のレジャー用品が並んでいた。金魚も今日がデビューのようで、季節が変わるのをホームセンターで感じる。
 風邪、歯肉炎、気管支炎と続いた冬もすっかり春爛漫と変わるとともにぼくの症状も治まった。自然はそのものが生きている、と感じるのだ。

科学はすごいもんだ

2018年04月06日 | 文学 思想
 NHKの「NHKスペシャル人体」では最先端の医療医学を鮮やかに描いていた。ナビゲーターはiPS の山中伸弥とタモリだった。
 胎児と母のやりとりが顕微鏡やスキャンでわかるようになっている。決定的なのはほんの1ミリにもならない受精卵が日増しに大きくなり、母の子宮に着床する場面だった。着床は難しい。しかし、受精卵は母と連絡を取り合っていた。これをメッセージ物質という。着床するとドミノ式全自動で心臓が作られ、心臓が肝臓を作りだしていく。この映像が映し出された。ぼくは腸から心臓が出来上がってくるのではないかと思っていたものだからこれには興味津々だった。
 胎児のもつ胎盤はメッセージ物質をだして、母の血管に「酸素が足りないよ」「もっと栄養がほしいよ」というメッセージをだす。そしてもっと成長するために母の子宮を破り、もっと酸素と栄養素が放出されるようにする。
 いやいやながら産まれてくる赤ちゃんという概念が飛んでいきそうだ。胎児は生きたい、生きなければならない、という自然の意志を持っている。各内蔵は互いにメッセージ物質でコミュニケーションをとっているのだった。そして生きる意志は胎児にあった。生まれるというだけで何億年も歴史を再現して進化する。それは奇跡のようなものだった。子供が母親に拗ねているなんて、無意味化されるようにも思えた。
 メッセージ物質の解明研究は医学では大革命である。これが解明されれば、体の内側から、薬での治療が可能となるそうだ。あと、5年。10年もあればほとんどの病気が克服され、若返ることだって可能になってくる。
 AIやIoT、ビッグデータベースともに、静かに医療革命が始まっている。驚くばかりだ。
 このような発見や研究は哲学-思想にも、そして当然のごとくぼくらの自然にも多大な根本的な影響を与える。「オレはおまえに産んでくれといった覚えはない」という親への反抗の言葉も無意味化されるが、生きる意味うぃ見いだすことにもなる。科学はすごいもんだ。

自分というものの根拠

2018年04月06日 | 文学 思想
 自分が体験してきたこと、自分が真摯に向き合って、何度も同じ本を読んだ物くらいが自分というものの根拠となり、その根拠があってそこから社会的事項にまで考えを伸ばせるものだと思っている。
 自分の仕事としての職歴、何度の読んだ著者では、吉本隆明、夏目漱石が何度も読む。
 本は毎日のように読む。それはいろいろである。結構多岐にわたる。しかし専門家ではないから本を読む楽しみであり、異なる意見や知らなかった知識や目の付け処、視点、行為などが僕の脳に読んだ内容体験として入ってくる。これも物事を考える上で体験+αの分類に入るのだろう。
 自分が専門としないところから物を言うと間違えることがあるがあるから注意が必要である。

 ところで「オフィス北野」のことがテレビでおもしろおかしく取り上げられているが、こんな話でテレビ電波を使わないでほしいと思う。何の意味もない。
 さらに大相撲の地方巡業での土俵上で市長が倒れ、女性看護師がいたので、その方が心臓マッサージをしていたとき、数回、女性は土俵から下りてください、と場内アナウンスが何度かあったらしい。アナウンスは他の行司の役割である。土俵に女性が上がることを禁じる伝統が刷り込まれているのだろう。人間とはそんなものか。とっさに自分の判断で命に係わることを男、女、慣習、伝統によって判断できなくなってしまう。これは恐ろしいことだ。共同幻想が勝ち過ぎている。自分が市長の立場に立てばわかることだ。そしてその能力は昨日読んでいた養老孟司の「遺書」の中で「6歳児には他人の胸の内がわかるようになる」と書いていたほどで、何歳の行事だったのか知らないが、またその場にも、行司や協会役員がいただろうが、とんでもない幼稚性である。ぼくは異常な暴力を振るった日馬富士を場所に出場させたことに反発を感じるのであるが、協会に違和感をもつ。

 自分がこのように意見を述べるのは「自分の成り立ちの根拠」から行っている。会社のために文を書いているでもなく、強制されて文を書いているわけでもない。
 命と慣習とどちらが大事か、と言われれば、今の時代、多くの人が「命」だと判断するだろう。

骨のこと

2018年04月04日 | 文学 思想
  骨は骨格を作り出すだけでなく、その中には骨髄があり、血液を作り、免疫細胞も作られ、身体を調整するホルモンも分泌される。また代謝とも関係する。
 ぼくは普段スポーツや運動をしないので、筋肉が衰えていることは確実で、はたっと思い、筋トレを始めるとその先に待っているのは筋肉の炎症か断裂に近い痛みである。それで治るまで待つことになる。しばらくしてそんな痛みがあったことも忘れて、またやっていると、また同じようなことを起こす。
 50歳も過ぎたら、ぼくのような身体は筋トレはやめた方がよいのではないかと思えてくる。それよりも骨を強くするのがよいような気がする。
 たまたま薬剤師がいたので、「骨を丈夫にするにはどうすればよいのか」と聞いたら、「そりゃあ、なんと言ったって、ビタミンDの入ったカルシウムと紫外線ですよ。これが一番丈夫にします」と言う。
 聞き方を間違えた。「骨を丈夫にするエクササイズってありますか」と聞くべきだった。その方面のことは知らないように思えたので、そのまま話を続けなかった。
 テレビの「ためしてガッテン」では骨粗鬆症になるのは20歳頃で決まる、と言っていたし、骨粗鬆症になってから薬を飲むのは時間厳守という厳しい飲み方があるらしい。
 ぼくの骨密度はどのくらいかわからないが、まだ骨粗鬆症がないとして、どのようにしたら骨が丈夫になるのか知りたいものだ。
 勘ではあるが、叩く、揺らす、ドンドン跳ぶ、Sの字を描くように立ち上がるなどがよいように思えてそれを意識してやっている。ラテラル呼吸はよいと思えるので、息を大きく吸うと骨が膨らみ、同時に肺が膨らむ。すると横隔膜は下がり、肋間筋は膨らむ。腹横筋も下がり、大腰筋も下がる。息を吐くと動きは逆になる。これは骨によって内臓も上下しているわけだし、骨の動きによって筋肉も自動的に上げ下げしているということである。

 もう筋肉は歩ける程度でよい。走ることも要らない。ということで筋トレは諦めることにした。筋肉は柔らかい方が瞬時の力を出すにはよさそうである。女性を見ていると、筋肉が柔らかそうなので、もしかして女性が長生きするのはそういう理由もあるのだろうか、などと考えてしまう。

 テレビを見ていてもどうしても頬杖をついてしまい、いかんいかん、と背を伸ばしている。今日も朝のテレビを見ていたら「かかと着地で親指でしっかり蹴り上げてください。かかとの骨は丸くなっていて重心がとりづらく、着地が違うと歪み、捻じれが起こる」と警鐘していた。ぼくは違うよ、踵も広いよ、
 くるぶしと足の第二̪趾から直線で交差するところが重心点である。もちろんかかとの一部分ではある。ここを意識してぼくは着地し、親指で蹴り上げている。これが科学的に正解である。
 岸恵子や草笛光子などの若さも姿勢の良さが大いに関係している。ぼくも腰が曲がってしまわないように腰をポンポン叩こう、そしてS字背伸をしようと思ったのだった。
 いろいろなやり方があるのだろう。複雑なものはできない。
 現代の若者は暇あればスマホばかり見ているので、さぞかし首の骨が悪くなるだろうなあ、と心配する。頭痛は首からくるのが90%ですよ、と医師が言ったのを思い出した。

有名女優 北川景子など

2018年04月03日 | 映画
 藤沢周平の作品だったと思うが、「花のあと」という時代劇映画があった。北川景子がひどく良かったのをおぼえている。ぼくにとっては初めて見た女優だった。その映画を見てから二年ほど経って、彼女はテレビに出始め、検事役をしたり、凄腕の不動産営業ウーマンをしたりしたが、大河ドラマでまた和服着物を着てでるようになった。北川景子は脚を矯正したほうがよいと思っていたが、この頃、矯正をしているのだろうと思う。
 「花のあと」では芯の強い女性で、夫の敵討ちをするのだったと記憶している。間違っているかもしれない。当時、藤沢周平の時代劇がいくつか公開されて、「山桜」もそのひとつだった。この映画もよく似たような雰囲気だったが、こちらは鈴木麗奈が主役だった。この女優もよかったが、ぼくは日本髪で和服姿の北川景子に軍配を上げた。
 TSUTAYA では「山桜」が今も並べられているが、「花のあと」は早々に引き払われてしまった。また観たいと思ってもないので、大変残念である。北川景子の記念碑的な作品だと思う。
 2016年テレビドラマ、松本清張の「黒い樹海」では姉の事故死にまつわる謎を追う妹役を演じていた。それを今日観たからつい北川景子の「花のあと」という傑作を思い出したのだ。
 この前草笛光子へのインタビューがあった。84歳だそうである。そしてその前に「徹子の部屋」に岸恵子がでていた。85歳だという。二人の若々しさには驚いた。内面が若いと思った。それに結構孤独好きだった。すでに年齢というものを越えていた。何歳かとも推量できるものではないのである。
 北川景子はどうなるのだろう。有名女優というのは超越した存在のように見える。しかもそこに知性が加わればさらに輝くような気がする。