エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

八ヶ岳の我が茅屋は雪の中にあった!

2010年01月10日 | 日記
八ヶ岳の我が茅屋は、雪に見舞われていたのである。
今日帰京するのである。

茅屋前の空地は斑(まばら)に雪が残っている。



枯葉の上に残る雪はアワアワとしていて儚(はかな)いのだ。
この同じ場所で暖かさがあった。



タンポポが咲いていたのである。
陽だまりは天国への階段であった。



ほうれん草も雪を被っていたけれど、しっかり生きている。
こうして寒さに耐えれば耐えるほど肉厚になるのだと言う。
もう少しこのままにして置こうと思っているのである。
肉厚のほうれん草は楽しみだ。

庭の一隅で「春蘭」が暖か気に葉を伸ばしていた。



枯葉の褥(しとね)は抜群に暖かいのである。
ぽかぽかとした日々を送っている春蘭である。

いつも晩夏から秋にかけて楽しませてくれる「周明菊」の今の姿。



花の後、丸まって種子を蓄えていたのであるけれど、弾けて、白い真綿のようなゆりかごを見せている。

綺麗な白である。
雪の白さとあいまって、際立つ白さである。



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                     荒野人

棗(なつめ)の実が・・・!

2010年01月10日 | 旅行
塩尻の街を散策していたのである。
ここは街の中心に位置するはずだ。



粋な黒塀の家の庭に棗の木が聳えていた。
この家は玄関も黒ずくめである。

こうした雰囲気の家が点在する塩尻は地方の典型的な街である。
良い街であると言える。



土曜日の朝とはいえ、人通りは少なく走っている車も少ない。
街の周囲にはアルプスの山並みが迫っているのである。



棗の木である。
実が生(な)っているけれど、かなりの量が落果してしまっているのである。

この実は、そのまま食べても甘く美味しい。
今ごろ、中国に行くと棗の実を串刺しにして、その上に飴を絡ませたお菓子が街頭で売られている。
サンザシもそのようにして売られているのである。

ぼくは冬に北京に行くと、この棗のお菓子を食べながら王府井(ワンフーチン)をそぞろ歩いたりしたものだった。

塀際には、食べられることも無く落果した実が・・・!



棗の絨毯である。
塩尻の寒さがそれとなく知れる風景である。

田舎の風景が街の中心部にある日本は、やはりよい国であると思う。
誰も収穫せず、鳥が啄(つい)ばむにまかせた柿の実が冬空に映えていた。



自然に帰っていく景色である。




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