エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

2月の兼題

2013年02月12日 | ポエム
俳誌「からまつ」は俳句結社「からまつ俳句会」の月間誌である。



毎月、キチンと発行される。
編集長、編集委員、並びに選者のご努力は大変なものである。
加えて、主宰の筆力と旺盛な作句、鑑賞にはただただ舌を巻く。

小なりと雖も「からまつ」ここにありの気概を吐く一冊である。

毎月兼題は4つ。
それに表紙の写真で作ることを加え、5つの課題が会員及び同人に投げかけられるのである。
ぼくは、基本的に4つの兼題に投句する。
写真で作る俳句は、自分のブログとの兼ね合いで遠慮することとしたのである。



今月は・・・。
「末黒野」スグロノと読む。
ススキ原や土手の葭原などの枯れ草を焼き上げる。
害虫除去の意味、更には発芽を促す意味もある。
たとえば奈良・若草山の山焼きなど夙に有名だけれど、ここで言う「末黒野」の状態は、少しぐらいの焼跡があっても良い。
焼いた後に青草が残っている、神事でもなく完璧を期する必要もなく・・・そんなかんじで捉えるのである。
とまれ初春の季語である。

二つ目は「春浅し」である。
よんで字の如く。
春まだ来の気配を言う。

三つめは「白魚」である。
四つ目は「下萌」である。
うらうらとした柔らかな日差しに誘われて、草の芽が一斉に吹きだす。
そんな初春の土手を思い起こしてみて頂きたい。
陽だまりの、まるで母の胎内のような居心地の良さ。
下萌から、ぼくはいつもそうしたイマージュを抱くのである。

最近は、スグロノといった状況に出くわすことが無くなった。
やがて季語としては死語化し、文化的言葉になっていくのだろうと思う。
寂しい限りである。



「未黒野の鋭く残る葦の茎」



この印象が強い。
例えば田焼の後や草はらを焼いた後、迂闊に裸足で歩くと稲の焼け残りで怪我をする。
焼け残った茎は、切っ先が鋭いのであった。

俳句を詠まなければ、一生出会うことのない言葉である。
歳時記の文化的価値を改めて見直した次第である。

この4つの兼題。
締め切りが15日である。
明日中には詠みあげて投句したいと思っている。



        荒 野人