エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

由紀さおりの歌う「故郷」

2013年08月26日 | ポエム
帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす!
と・・・陶淵明(とうえんめい)は41才の時、役人生活に別れを告げ故郷に帰るのだけれどその時の慨嘆である。



3.11以降、故郷はまさに荒れなんとしている。
被災された方々の慨嘆は、いかばかりであるか!
地震そして津波、原発事故。
全ての発災は、人智を越えていた。



けれども、発災後の対応は未だ不十分である。
3.11以後は、全て人災であると言っても過言ではない。
先月には山形を歩いたけれど、3.11の爪痕は山深い場所でも残っていて・・・いや寧ろ爪痕は徐々に深くなってきている。



関東以西はなんとか田園が保たれている。
青嵐が渡る景色は遺されている。



里山は荒廃しており、谷戸の棚田は放置されてしまっている。
棚田の石垣が崩れ、そこから水が漏れてしまっている。
水田としては、使用に耐えられない現状がある。



「田毎の月」などと云う風情は圧倒的に減ってしまった。
田園は荒れ、故郷は喪失してしまったのである。



由紀さおり 安田祥子 「故郷」





「荒れてゆく心の襞の青嵐」



今更ながら、この歌が沁みる。

帰去来夸 (かえりなん いざ)
田園将蕪胡不帰 (でんえん まさに あれなんとす なんぞかえらんとす)




        荒 野人

龍安寺の石庭

2013年08月25日 | ポエム
龍安寺の石庭は、ぐるりの土壁が綺麗過ぎる。
以前は、もう少し素朴だったのではないか。



言い換えれば、破綻が無さすぎなのである。石庭の描く曼陀羅が完璧に過ぎるのである。
完璧な円をもっていて、大団円に過ぎるのだ。
破綻の無い大団円など、面白くも何も無いではないか。



石庭を見た後、この睡蓮の池を一周する。
誠に雅趣に満ちた工夫である。

出口におられるお坊様にお聞きしたのだけれど、ここも俗化したのだよ!と仰る。
観光地化の必然なのであろう。
やむを得ない,か。







「石を措く古人の意趣や秋隣」







だが、そうだとしてもこの庭の時間はゆっくりと流れている。
少なくとも、時間は浄化されていて静謐を形作る。
心地良いのである。



この模型は、視力が充分ではない方のためとある。
とまれ、カルチャーの異なる海外の旅人は、感動するはづである。



ここが石庭への入口である。
すでに、ここから庭が始まっている。
大気、その大気の紡ぐ風、快適に滞る時間、何処からか漂ってくる香の淡い甘さ、そして全体が醸し出す宇宙である。



石庭以外の竜安寺のお庭には、苔が蒸している。
時代を感じさせる佇まいである。



苔の好きな女がいた。
その女は、素晴らしく雰囲気を漂わせていた。

女は、苔の写真を撮りながらフッと笑った。



      荒 野人

清水の舞台

2013年08月24日 | ポエム
夏の京都と言えば、冷やし飴である。
人によって好き嫌いがあるけれど、ぼくは、この冷やし飴が好物である。



良く冷やして飲むと、爽やかである。
大阪でも冷やし飴は良く飲まれている。



関西の食文化の一つである。
ぼくは、とりわけ清水寺を参観したあと、坂道の途中の茶店で頂くのが好きだ。



清水はいかなる旅行であれ、外せない。







「清水の夏の舞台の濡れており」







暑さの喘ぎは、間もなく終わる。
もう秋なのである。



京都は暑い。



それにしても熱い。



盆地なのだから当然である。



鴨川の流れが救いである。



       荒 野人

金閣寺

2013年08月23日 | ポエム
実に47年ぶりに「金閣寺」の参観に行ったのである。
修学旅行以来と言えば良いだろう。

海外のお客さんと、京都観光に出かけたことも何回かあるけれど、個人の好みが強く反映して金閣寺にはついぞ行かなかった。
京都観光二日、奈良三日といった塩梅であった。

金閣寺はあまりにも有名過ぎて面白みが無い。
いやむしろ、観光地として陳腐化してしまっているのではないか?
などと勝手に思い込んでいたのである。

今回、たまたま思い立って金閣寺・・・竜安寺・・・仁和寺・・・四条・京極散策、というルートを歩いてみたのである。
いや、寺院の間は市バスの乗り継ぎである。



なんたって、関西は観測以来という夏日が連続している。
大阪なんかも大変な暑さである。
京都は盆地であるから、さらに蒸し暑い。
雲の峰の縁が、シャープである。

47年ぶりの金閣寺。
やはり、感動する。
陳腐化してはいないけれど、俗化現象に見舞われている。







「金閣の時代が洗う夏の宵」







周辺に民家が立ちこみ過ぎているからである。
あの、鄙びた都の面影は殆ど無い。
例えば洛北の祇王寺周辺だとか、落柿舎周辺の田園風景だとか、洛中には残されていないとも言える。

京都滞在中、俳句は殆ど詠めなかった。
宿は鴨川沿いにあって、部屋からは東山の全景が望める。
東山に向かって、視線を左に流すと京都の繁華街が望めた。

清水寺の塔、知恩院の伽藍、高台寺の伽藍、更には八坂神社の気配すら感じられるのであった。
京に鬼が済んでいた時代・・・その匂いが感じられるのであった。
京では鬼と人とが共存していたとある。



安倍清明が活躍した時代は、正にそうした時代でもあった。
古は、いまや掠れつつあるのかもしれない。




        荒 野人

さて、秋立てり

2013年08月21日 | ポエム
風立ちぬ・・・このアニメ映画は大ヒットしている、らしい。



 風立ちぬ
 いざ
 生きめやも



堀辰雄と堀越二郎の二名を、足して二で割った人物像だと宮崎駿は言う。
上映の時期と言い、内容と言い、タイムリーである。



見ての通り、雲の峰は輪郭を定かにしない。
いつだって崩れている。
盛夏の時のような雄々しさが、無いのである。







「夜明け待つ風立ち初める辻昏く」







ダイサギは池の小魚を狙っている。
抜き足差し脚でそっと近づく。

その歩き方は、舞台の「夜明け前」で葉蔵が狂気のままに歩く姿のようである。
滝沢修が演じて、見事だった。

ダイサギは秋を感じているのであろう。
どこか遠くから飛翔してきたのである。



一昨日の月。
今夜はおそらく・・・満月。
ぼくはいま、京都で月を眺めている。



       荒 野人