エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

シモバシラの氷花

2016年01月26日 | ポエム
シモバシラの氷花が立った。
気温が氷点下になる事、風が無い事・・・などの条件が揃って氷の花が咲くのである。



シモバシラという名前も付いている植物である。
冬、すっかり葉を落として茎も枯れ果てる。



その枯れた茎が水を吸い上げ、氷の花を立ち上げるのだ。



今年は、背丈が低い。
もっと高く咲く。

やはり、暖かいのだろうか?



このように、一つとして同じ形にはならない。
この花は、明日には違った形になるのだ。




毎日見に来る人もいるらしい。
ぼくも毎日来たいのだが、少し意気地なしになっている。






「煌めくややがて溶けゆくシモバシラ」







この日、珍しく午前十時くらいまではなは溶けなかった。



溶け出すその時の花藻なかなか良い、のである。



本来の氷の姿を、見せるのだ。
右下の氷のようになって、やがて毀れて溶ける。

その儚さが良いのである。



シモバシラの花。
氷花。
花が立つ。

色々と表現出来る。



ぼくたちが、普通に目にする霜柱はこれだ。



この霜柱だって、美しい。
陽が上がってくると、キラキラして輝く。

ぼくは、その輝きが好きだ。



勿論、踏みつけてその音を楽しむのも好きだ。
冬の音がする、からである。



     荒 野人

小さな春を探す

2016年01月24日 | ポエム
小さな春は、其処にある。
これは本当だ!

この冬は暖かいのである。
いま、寒波が襲来して来たとしてもだ。
陽射しの暖かさは、比類が無い。



春の色が溢れている。
あなたの周りにも溢れている筈である。



今日「メジロ」と出会った。
生き物の姿は、大きな希望を与えてくれる。

このメジロは、見向きもしないで飛び去った。
でも、嬉しかったのである。



例年最も早く咲く桜の蕾が、ここまで膨らんでいる。
これは少しばかり、複雑な気分である。

けれども、期待で胸が膨らむ。







「口すぼめアロエの花のすまし顔」







アロエの花と枇杷の実。
アロエの花は、どの歳時記にも載っていない。

けれども、紛れも無く冬に咲く。
枇杷の実は、徐々に膨らんでくる・・・それも嬉しい。

だがしかし、枇杷の実は「夏」の季語である。
早い、実の付き方である。

さて、春の妖精と出会った。



福寿草の蕾。
我が家の福寿草である。



スノードロップ。
お隣さんの、花壇である。

二つの花は「スプリング・エフェメラル」春の妖精である。
歩いてみるものだ。
胸が膨らんで、わくわくする自然の営みが其処にある。



      荒 野人

菜の花畑

2016年01月23日 | ポエム
葛西臨海公園の菜の花畑は、まだ眠りにあった。
ただ気の早い子たちは、すっくと立ち上がっていて花を咲かせているのであった。

黄色のこの花を、PCの壁紙で眺めていると目に優しい。




菜の花畑





心優しい色合いである。
二月には立春を迎える。

ぼくは、この菜の花畑の周りを彷徨った。







「菜の花や真っ向からの潮の風」







彷徨ったのは「オオイヌノフグリ」の小さな紫の花を探し歩いたからであった。
数輪を見つけた。

その紹介は次回以降に残しておく。



鴨が、池から菜の花畑に歩いて来た。
愛おしい渡り鳥である。



      荒 野人



葛西臨海公園の水仙

2016年01月22日 | ポエム
元々は、伊豆下田の爪木崎の水仙である。
それが増えて、臨海公園のポイント地点になった。



なかなか見事な水仙たちである。
けれど、過日の大雪で茎が薙ぎ倒されてしまった。

公園の作業員の方に聞くと、本来は未だ五分咲きなのに・・・。
「そう、もう終わりの雰囲気ですよね!」
と、ぼくは言ってしまった。



二月に水仙祭が予定されている。
作業員の方は、残念そうに・・・。
「二年前の水仙も、悲惨でしたね・・・!」
と、言った。







「水仙花ただ一枝に噎せ返る」







水仙は、こうしてアップで鑑賞する他は無い。
実に見事な水仙である。



ぼくが、この水仙畑を離れようと背を向ける。
たちまち、香りが強まって噎せ返るように感じたのであった。

もう一度は、この水仙に会いにこようと念じた。
海浜に出ると、海は煌めいていたのであった。



     荒 野人

冬ぼたん

2016年01月21日 | ポエム
冬ぼたん・・・寒ぼたんとも云う。
けれど、冬ぼたんが胸に落ちる。

言い易いし、心地良いのである。
冬ぼたんは上野寛永寺の「ぼたん苑」が夙に有名である。
今日の冬ぼたんは、神代植物公園である。



花の大きさと云い、ふくよかな香りといい誠に花の女王である。
とりわけ、この時機は藁囲いの中に鎮座する姿が奥床しくて宜しい。



この寒さ凌ぎの姿こそ、女王の凛然たる姿である。
冬らしさが出ているからであろうか、何故か愛おしくてならないのである。

そっと抱きかかえてあげたくなって、しまう。







「藁の家祈り捧げる冬ぼたん」







ぼたんの大柄な姿は、均整の取れた姿であって健康的である。
こうした女性が、ぼくは好きだ。



心のどこかにひそめた貞節だとか、あるいは母性に恋するのである。
冬ほたんは、そうした男の欲望に火をつける。



もしも、このような女性に出会ったら決して手放してはならないのである。
しっかりと抱きかかえておかなければならない。

二度と出会う事は、出来ないからである。



     荒 野人