エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

鬼鎮神社

2016年01月20日 | ポエム
世にも珍しい、鬼を祀神とする神社である。
「きぢんじんじゃ」と読む。



場所は、埼玉県の武蔵嵐山駅から徒歩15分。
奥まった場所に鎮座している。



かつては、門前列をなしていた。
門前町が広がり、宿も数軒あったというのである。



今でも、信仰の篤い善男善女が押し寄せる。
宮司は、かつてを懐かしむかのように語ってくれた。







「雪の径鬼の鎮もる神社かな」







本殿の右横に、鬼の金棒が寄進されている。
戦前は、巨大な金棒が寄進されていたらしいのだ。
終戦直前、それらの金棒は拠出したのだという。

大雪の翌日であるからだろうか、頭を垂れに来たのはぼく一人だったらしい。
お護りを二つ買い求めたのであった。

この神社の節分会は、他の神社とは掛け声が違う。
鬼を祀っているからである。
「福は内、鬼は内、悪魔外!」
である。



嵐山の人々は、柿などは収穫しないようだ。
柿の木には、無数のヘタが残っていた。



雪に埋もれた、大根や白菜、それにネギ・・・。



梅の花も、隠れている。



家に着く頃、月が現われた。



雪の処女地は、触れる事を拒んでいる。
楽しい、ショートトリップであった。



       荒 野人


紅梅白梅の饗宴

2016年01月19日 | ポエム
結構な季節になって来た。
昨日は、雪模様であったけれど梅が咲くのは心地良い。

雪が、南岸低気圧の襲来である事は衆議の見るところである。



この時機は、咲いている梅の花の数の提が多い。
さもありなん・・・梅の古木には精霊が宿っているからである。



だからこそ、これほど人を惹き付けるのである。
梅の花びらの透過光は、淡淡として触れれば消え入りそうである。



梅が咲いたのだから、桜も近い。
そうでなくてはならないのである。







「白梅の犇めいており枝の先」







梅の花も個性豊かである。



ただし、そのように撮ってあげなくてはならない。
梅の美しさを完全に認めて、ひれ伏す事からそれは始まる。



白さは白さ、蕊は蕊として愛でる事である。



      荒 野人

枯木立

2016年01月18日 | ポエム
誠に寒い。
いまは、寒中。
寒中らしい寒さであって、そのこと自体驚く事でもない。

枯木立が凍えている。



そのように見える。
だがしかし、昼前は比較的暖かかった。

人はその暖かさに誘われるかのように、表に出てくる。
その様は、人が太陽の子であると思わせる。



思い思いに歩く。
歩く・・・その行為が人である。



ぼくは、定点観測のベンチで時間を過ごす。







「枯木立ゆったり流るフルートの音」







何処からか、フルートが聞こえて来た。
練習曲が吹かれている。



豊かな昼下がりである。
けれども午後、気温が急激に下がり続けている。

明日は、雪の予報が出ている。
もし雪が降ったなら、六義園に出かけてみたい・・・。
雪の六義園は、すてきである。



     荒 野人



冬そうび

2016年01月17日 | ポエム
誠に、哀れを催すのである。
形の良い「蕾」が出来ても、開くこと無く朽ちる。
それがものの哀れを誘うのだ。



ぼくは、けれども「冬そうび」が大好きである。
例え、みのらなくっても花は花である。







「立ち尽くす極む哀れの冬そうび」







今日の「冬そうび」は神代植物園の薔薇園である。
いま、音質を改修中であって見所は少なくなっている。
少ないけれど、やはり通うのに遜色は無い。



このバラたちは、梅と蠟梅を見に行った時のものである。
当初の予定では、18日と思っていたのだけれど・・・。
雨模様なので、昨日にしたと云うわけだ。



殆どは、こうした朽ちつつある冬そうびだったけれど「何かを感じ」させるものであった。
その何かは、哀れだとか・・・美しく生きることへの憧憬だったりする。



噴水が華を添える。
バラ園の噴水は、冬であっても水を吹き上げている。
それが良い。



「冬そうび」に感動する。
離れ難いほど、美しい。

ぼくも、こうありたい・・・。
年齢相応に、存在したいのである。



      荒 野人

初富士

2016年01月15日 | ポエム
初富士は、年が明けて3日に出かけたのであった。
温かな三が日であった。

いまは、寒気団がシベリヤから降りて来て東京も氷点下の気温をはじき出した。
板橋植物園の聞きにいったのだが、その日見事なシモバシラが立ったそうだ。

来週には、そのシモバシラをお見せ出来ると思う。



半月ほど前には、この富士は「ダイヤモンド富士」を演出してくれた。
けれども、一番良い時期には雲が多くて見られなかったそうである。

この日は、ダイヤモンド富士ではないけれど夕陽に映えて見事であった。



落日の大要は、向かって左に大きく逸れている。
それでも良い。

富士の雄姿は見事であった。







「初富士や眉間ひとすじ朝日受く」







この富士山は、西武線東久留米駅の「富士見テラス」からの映像である。
ダイヤモンド富士の時機には、素人カメラマンが押し掛けたそうだ。

3日、ぼくは静かに写真を撮ることが出来た。
それでも、素人カメラマンは多かった。




落日の前後、鮮やかな夕焼けが広がった。
冬夕焼である。



カラッと晴れて、しかも雲が多少必要である。
ぼくは、夕焼が大好きである。

そこに「何か」を見いだしたいからだ。
ぼくは一年中夕焼を詠っている。

その下には、極楽がありそうだ・・・。



      荒 野人