29日朝、徳島県の山間部にある上勝町(かみかつちょう)は雪だった=写真=。28日夜からの寒波のせいで積雪は5㌢ほどだが、まるで水墨画のような光景である。ただ、土地の人達にとって、この寒波は31年前の出来事を思い起こさせたことだろう。1981年2月2月、マイナス13度という異常寒波が谷あいの上勝地区を襲い、ほとんどのミカンの木が枯死した。当時、主な産物であった木材や温州みかんは輸入自由化や産地間競争が激しく、伸び悩んでいた。売上は約半分にまで減少し、上勝の農業は打撃を受けていた。そこへ追い打ちをかけるように強力な寒波が襲ったのだ。主力農産品を失って過疎化に拍車がかかった。若年人口が流出し、1950年に6356人あった上勝町の人口は一気に減り、2011年には1890人にまで低下した。高齢化率は49%となった。人口の半分が65歳以上の超高齢化社会がやってきた。
葉っぱを農産物に、お年寄りにタブレット端末を
上勝町を訪れたのは2月27日から3日間。金沢大学と能登半島の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)でつくる任意団体「能登キャンパス構想推進協議会」(会長は金沢大学社会貢献担当理事・副学長)の共同調査研究事業の一環として、研究者と自治体の若手職員が調査のため視察に訪れた。地場産品をいかにマーケットに乗せて流通させ、シェアをとり、ブランド化するかという「6次化」をテーマとした先進地調査だった。事前に本を読み、話し合い、勉強もた。27日に上勝をバスで訪れて、現地に降りた。ある職員がつぶやいた。「これは厳しいな。能登と比べものにならない」と。谷が深く、平地が少ない。当然日照時間も平地より少ない。農業にとっては明らかに条件不利地である。しかも、労働力人口の半分は65歳以上の高齢者だ。
しかし、上勝には奇跡が起きた。高齢者が主体となって年間で2億6千万円も売り上げる産品を見つけた。多い人で年収1200万円。94歳のおばさんが木に登って採取し、タブレット端末で受注する。そして今年秋には、その高齢者たちが生き生きと働く様子が『人生、いろどり』というタイトル名の映画にもなるという。主演は、吉行和子や富司純子、中尾ミエら。絶望の町に奇跡を起こした産品とは「葉っぱ」である。
「彩(いろどり)」とブランド名がついている。もみじや柿、南天、椿の葉っぱや、梅や桜、桃の花などを料理のつま物として商品化したもの。山あいの村では自生しているが、市場出荷が本格的になるにつれ、栽培も盛んに行われるようになった。採取は掘り起こしたり、機械を用いない。しかも、野菜などと比べて軽くて小さいので高齢者には打ってつけの仕事なのである。懐石料理など日本食には欠かせない、このつま物はこれまで店が近くの農家と契約したり、料理人が山に取りに行ったりすることが多かった。これを市場参入させたのが当時、農協の営農指導担当だった横石知二氏(1958年生)=写真=だった。
つま物を市場参入させるひらめきのきっかけはこうだった。以下、横石氏の講演から抜粋する。1987年ごろ、ミカン栽培に見切るをつけて何を町の特産品にしたらよいか悩んでいた。たまたま大阪の寿司屋で2人の若い女性客が、添え物として皿に飾られていた葉っぱを手にしているのを見た。そしてこんな会話が耳に入ってきた。「きれいね。家に持って帰ろうか」と。横石氏はひらめいた。「つま物で何かできるかもしれない」。山あいの上勝町には、和食に添えられる季節の葉っぱや花はいくらでもある。このひらめきをビジネスに育て上げるまでが大変だった。地元の農家に説明しても、初めの頃は「葉っぱが金に化けるなんて考えられない」といった拒絶反応がほとんどだった。農家を説得して回り、ようやく葉っぱを商品として出荷することにこぎつけたものの売れなかった。横石氏は当時を振り返り、「利用者のニーズを把握できてなかったんです」と。そこで自腹を切って、全国の料亭や料理屋を訪ねて、どんなつまものだったら買ってもらえるのか、ユーザーの声を聞いて回った。
こうした横石氏の地道な努力が実を結び、上勝町の「葉っぱビジネス」は見事に成功。現在は、200の生産農家(70-80歳代)が、320種類のつまものを「彩いろどりブランド」として全国に出荷する。農協で収集した販売単価や出荷数量などのデータを横石氏が社長を務める株式会社いろどりで分析し、農家へ伝達。農家はこれを分析し、翌日の牛産量や品目の選定の目安にしている。また、出荷・受注業務を効率化するため、FAXやパソコン、最近ではNTTドコモとタイップしてタブレット端末を積極的に導入している。農産物史上で葉っぱを商品化し、IT史上で高齢者がビジネスとして使う地域の事例があっただろうか。奇跡なのである。
⇒1日(木)朝・金沢の天気 はれ