自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆熊本地震から6年、城下町の被災現場に金沢を重ね思う

2022年04月14日 | ⇒ドキュメント回廊

   きょうは「4月14日」。6年前の2016年のこの日、熊本地方を震源とする最大震度7の地震が発生した。その28時間後にも再び震度7の地震が起きた。2度の激震で、熊本のシンボルでもある熊本城は天守閣や石垣などが崩れた。震災から6ヵ月後の10月8日に被災地を訪ねた。

   地震の被災地をこれまで何度か訪れている。そのきっかけは新聞記者時代に体験した津波だった。1983年5月26日に秋田沖を震源とする日本海中部沖地震が起きた。輪島支局に勤務していて、震度3の揺れだった。津波が日本海沿岸に押し寄せた。輪島漁港に大きな渦がまき、漁船が沈没した。その様子をカメラのシャッターを1回だけ切って高台に避難した。足元に波が来てさらわれそうになったからだ。それ以降、被災地を訪れ、被害の状況をこの目で確かめるようにしている。

   新幹線熊本駅に到着して向かったのは熊本城だった。当時テレビで熊本城の被災の様子が報じられ、「飯田丸五階櫓(やぐら)」が震災復興のシンボルにもなっていた。石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、飯田丸五階櫓を見学することはできなかった。ボランティアの説明によると、櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真、熊本市役所公式サイトより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。崩れ落ちた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す復旧作業が行われていた。

   熊本を訪れたこの日、阿蘇山の中岳で大噴火があり、36年ぶりの「爆発的噴火」だった。熊本城の被災状況を見た後、チャーターしたタクシーで阿蘇山行きを検討したが、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号は4月の地震で寸断されていて、迂回路は慢性的な交通渋滞になっていた。噴火で渋滞に拍車がかかっていることが予測され、断念せざるを得なかった。次ぎに益城町に向かった。震度7で揺れた益城町では3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。道路添いに倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が間近に見えた。そして、田んぼには断層の亀裂が走っていた。

   熊本城、そして益城町の当時の様子を思い出して、1799年6月29日に起きた金沢地震の被害を想像することがある。言い伝えでは、10万人の城下町で5千余りの住宅や土蔵が全半壊し、金沢城の石垣が崩れ落ちたとされる。まさに、熊本で見た被災地の光景だ。金沢市の公式サイトに掲載されている「平成24年度(2012)被害想定調査結果」によると、金沢の平野部を走る森本・富樫断層帯で中心部直下の地震が起きた場合、マグニチュードは 7.2、最大で震度7、建物被害は3万1700棟を予測している。

⇒14日(木)午後・金沢の天気    くもり時々あめ


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