自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★地震で傾いた鐘楼堂 修復へと持ち上げた檀家パワー

2024年04月17日 | ⇒ドキュメント回廊

  前回ブログの続き。15日に回った穴水町由比ヶ丘や能登町白丸では地震だけでなく、がけ崖崩れや津波、火災といった複合災害で甚大な被害が出た。これらの地域では3ヵ月過ぎても被害状況はそのまま、人影もほとんどなかった。

        気になった寺があり、帰りに立ち寄った。1月5日に能登町神和住を通ると、石垣の上に今にも倒れ落ちそうな鐘楼堂があった=写真・左=。石垣が一部ひび割れ、根元から大きく傾いている。地震前日の大みそかに多くの人たちが除夜の鐘をつきに訪れただろうと思うと、地域の人たちが鐘楼堂を見るたびに感じるであろう緊張感が伝わってくるようだった。あの鐘楼堂はどうなったのだろうかと気になっていた。

  再度訪れると、まさに修復中だった=写真・右=。鐘楼堂はまっすぐに直され、ひび割れた石垣の周囲を木製のブロックで囲って支えているように見えた。さらに、柱に補強が施されていた。屋根と柱のみで構成された鐘楼堂は、重量級の梵鐘を支える柱が要(かなめ)とされる。このため、4本の柱は強度を増すため、踏ん張るように少し斜めに建てられている。これを宮大工は「四方転び」と呼んでいる。鐘楼堂は寺院のシンボルでもある。耐久性だけでなく建物としてのバランスや建築美の視点も欠かせない。それを見事に復元させているように思えた。

  と同時に、おそらく自らも被災したであろう檀家衆が寺の住職と寄り添い修復の実行へと動いた志(こころざし)に地域のパワーを感じた。

⇒17日(水)午後・金沢の天気   はれ

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☆3ヵ月半経つも現場はそのまま、ボランティアの姿もなく

2024年04月16日 | ⇒ドキュメント回廊

  きょう金沢は夏日、街路の温度計では26度だった=写真・上=。庭の草むしりは上はシャツ一枚で十分だった。金沢地方気象台によると、今夜からあす17日朝までは大気の状態が不安定で、所により雷を伴った雨の降る所がある見込みとのこと。そして、あさって18日から黄砂が予想されている。午後には金沢の街全体がぼんやりとかすんで見えた。いわゆる「霞(かずみ)」だろう。「春なれや名もなき山の薄霞」(芭蕉)

  前回ブログの続き。能登鹿島駅の桜を見て、その後、穴水町で16人が亡くなった由比ヶ丘地区をめぐった。一帯には大量の土砂が積み上がり、巻き込まれた家や車が流されていた。現場はそのまま残されていた=写真・上=。今月12日に当地を訪れた天皇、皇后両陛下が黙礼をされた場所でもある。海岸沿いを走り、能登町鵜川地区に入った。古い伝統的な家並みが多い地区で、全壊の住宅も目立った。

  そして、同じ能登町の白丸地区に入った。同町ではもっとも被害が大きかった地区でもある。白い砂浜が円を描くような風光明媚な地区で、地名そのもの。ここに地震、火災、そして津波の複合災害が起きた。火災に見舞われた一帯では黒くなった車や焼け残った瓦が積み重なっていた。気象庁によると、4.7㍍(痕跡高)の津波が200世帯の白丸地区に到達した。発生から3ヵ月半がたっても、大量のがれきが散乱していた=写真・下=。

  今月12日には両陛下が穴水町に続いて、この地を訪れている。地区をひと回りしたが、がれきを片付けている人がいたのは2軒だけだった。そして、がれきの処理を手伝ってくれる支援ボランティアの姿はなかった。

⇒16日(火)夜・金沢の天気    あめ  

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★「能登さくら駅」の列車と桜トンネル、海を彩る華やかさ

2024年04月15日 | ⇒ドキュメント回廊

   兼六園のソメイヨシノの見頃は過ぎたものの、かなりの観光客でにぎわっている。きょうその兼六園の桜を横目で見て、能登へと車を走らせた。能登半島地震の影響で主要地方道「のと里山海道」は途中から一方通行になっていて、混雑していた。2時間半ほどかかって目的地に到着した。半島の奥、穴水町にある「のと鉄道」の能登鹿島駅。桜の観光名所で知られ、「能登さくら駅」の愛称で親しまれている。

  無人駅のホームに入ると、線路を囲むようにヨメイヨシノが咲いている。アマチュアカメラマンや見学に来た人たちが200人ほどいただろうか。昭和7年(1932)に鉄道の開通を祝って桜が植えられた。それ以降も鉄道会社や地域の人たちが少しずつ植え、いまでは100本余りのソメイヨシノやシダレ桜が構内を彩っている。

  午後0時19分発の穴水駅行きの列車と、午後0時20分発の七尾駅行きの列車が能登鹿島駅で止まった=写真・上=。アマチュアカメラマンたちがわっと押し寄せ、撮影が始まった。満開の桜のトンネルと列車がじつに絵になり、心が和むアングルだ。

  のと鉄道は今回の地震で線路が歪むなど大きな被害に見舞われた。今月6日、およそ3ヵ月ぶりに全線での運転再開にこぎつけた。震災直後のガタガタとなった線路を実際に見ている能登の現地の人々にとっては、満開の桜のトンネルと列車の様子を見てようやく日常への一歩と実感しているかもしれない。

  列車が去り、駅を出ると、まったく別の光景が目に入って来た。桜の並木の向こうに見える穴水湾の海がなんとも幻想的な光景を醸し出している=写真・下=。何と表現したらよいのだろうか、青い海を彩る華やかな桜、青空とコバルトブルーの海を染めるみやびな桜、なのだ。絶景を何度か振り返りながら能登鹿島駅を後にした。

⇒15日(月)夜・金沢の天気    くもり

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☆バイデン大統領の輪島塗を制作したプロデューサーの横顔

2024年04月14日 | ⇒ドキュメント回廊

  日米首脳会談でアメリカを訪れた岸田総理がバイデン大統領に贈った輪島塗が喜ばれたことから、輪島塗が脚光を浴びるようになった。日本人にとって輪島塗と言えば椀や盆という伝統的な器のイメージが強かったが、今回プレゼントされたのは、青と黒のグラデーションが施されたコーヒーカップ、そして、アメリカの象徴である白頭鷲と日本の象徴である鳳凰が舞う姿を蒔絵で描いたボールペンだった。「輪島塗で意外なものが創れる」。これまでの印象が覆されたのではないだろうか。では、こうした輪島塗の創造的な作品はどのようにして創られたのか。

       岸田総理は2月24日に能登半島地震の視察で輪島市を訪れ、輪島塗や農林漁、観光の後継者たちと車座で語り合った。このとき、輪島塗の作品の数々を並べて輪島塗の復興について語ったのが、田谷漆器店の田谷昂大(たや・たかひろ)氏だった。田谷氏は32歳という若さで、社長のポストに就いて、アイデアと感性を凝らした作品づくりを手掛けている。この車座対話のときに、岸田総理は外遊先に輪島塗を積極的に持っていく意向を田谷氏に伝えていた。政府から田谷氏に正式に制作依頼があったのは3月上旬だった。(※写真は、田谷漆器店公式サイトより)

  去年の4月7日、田谷漆器店の工房を見学させてもらった=写真・下、右の人物が田谷昂大氏=。創業200年の老舗で、田谷氏は十代目となる。地元では輪島塗の製造販売店を「塗師屋(ぬしや)」と呼ぶ。

  輪島塗は124の細分化された工程で成り立っていて、それぞれに専門の職人がいる。塗師屋はその工程を統括する。雇っている職人もいれば、外注の職人もいる。とくに、蒔絵や沈金といった加飾では、作品の絵柄によってその絵柄を得意とする職人を選ぶことになる。現代風に言えば、塗師屋は受注から企画、制作、販売を自前で行う「総合プロデューサー」でもある。この一貫した体制があるので、3月上旬に政府から発注を受け、スピード感を持って制作し、4月上旬の納品が間に合ったのだろう。 田谷氏が「塗師屋の仕事は、それぞれの職人が仕事に集中できるように気を回すこと」と語っていたことを覚えている。

  田谷氏の口癖は「漆で表現できるものならば何でも挑戦したい」。この言葉から、塗師屋の威厳と熱い思いを感じた。

⇒14日(日)夜・金沢の天気    はれ

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★「金継ぎ」の発想で能登復興の10年先、20年先をつなぐ

2024年04月13日 | ⇒ドキュメント回廊

   輪島市や珠洲市など能登半島地震の被災地をめぐると、これまで行き来した能登での思い出などが蘇って来る。輪島で倒壊した7階建ての建物は、輪島塗の製造販売(塗師屋)の大手「五島屋」のビルだ=写真・上=。倒壊した内部の様子を外から見ると、グランドピアノが横倒しになっている。展示場で飾られてあった、輪島塗のピアノだろうと察した。

   もう40年も前の話だが、当時、新聞記者として輪島支局に赴いた。そのとき、当時の社長の五島耕太郎氏(1938-2014)と取材を通じて知り合った。チャレンジ精神が旺盛で、「ジャパン(japan)は漆器のことなんだよ」と言い、海外での展示販売などに積極的だった。また、「輪島塗は器や盆だけじゃない。ピアノも輪島塗でできる」と話していたことを覚えている。バブル景気の走りのころで、輪島塗業界には勢いがあった。その後、五島氏は1986年に輪島市長に就き、3期12年つとめた。そして漆器業界はバルブ経済絶頂には年間生産額が180億円(1991年)に達した。横倒しになったグランドピアノはそんなころに作られたものかと憶測した。

  話は変わるが、輪島塗は塗り物だが、焼き物との接点もある。「金継ぎ」と呼ばれる、陶器の割れを漆と金粉を使って器として再生する技術のこと。2022年1月に珠洲市の国際芸術祭の会場の一つ「スズ・シアター・ミュージアム『光の方舟』」にある大皿にも金継ぎが施されていた。松の木とツルとカメの絵が描かれ、めでたい席で使われたのだろう。それを、うっかり落としたか、何かに当てたのだろうか。中心から4方に金継ぎの線が延びている=写真・下=。大正か昭和の初めのころの作か。金継ぎの皿からその家のにぎわいやもてなし、そして「もったいない」の気持ちが伝わってくる。  

  「kintsugi」という言葉が世間に、そして世界に広がったきっかけは、東京パラリンピックの閉会式(国立競技場・2021年9月5日)でアンドリュー・パーソンズ会長が発した言葉だった。日本の金継ぎの技術について、「不完全さを受け入れ、隠すのではなく、大切にしようという発想であり素晴らしい」と述べた。その背景には、サステナビリティやサーキュラーエコノミー(循環型経済)を各国が推し進めていることもある。

  輪島で受け継がれている金継ぎ技術から連想するのは、震災で壊れた能登の復興だ。壊れた皿に漆と金箔を使うことでアートを施して芸術的価値を高める。能登の復興も単なる復興ではなく、不完全さを受け入れながらも住み易さや、未来への可能性を確信させる街づくりに向っていく。金継ぎの発想で能登の復興の10年先、20年先をつなぐ。そうあってほしい。

⇒13日(土)午後・金沢の天気    はれ

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☆両陛下が2度目の能登見舞い 丁寧な被災者への寄り添い

2024年04月12日 | ⇒ドキュメント回廊

  天皇、皇后両陛下がきょう再び能登を訪れ、被災した人々を見舞われた。前回は3月22日だったので、1ヵ月以内に2度は皇室では異例ではないだろうか。メディア各社の報道によると、両陛下は羽田空港の出発時に搭乗した特別機に機材トラブルがあり、別の予備機に乗り換えて能登空港に向かい、予定より1時間遅れて午前11時30分ごろに到着された。

  きょうの能登は青空が広がり、輪島では午前中に20度まで気温が上がった。テレビのニュースで訪問の様子を視ていると、天皇陛下は白いシャツにグレーのジャケット、皇后さまは薄手のブレーのタートルネックに紺のブレザーだった。少し暑く感じられたかもしれない。

  能登空港のターミナルビルで馳知事から被災状況などの説明を受け、その後、午後に自衛隊のヘリコプターで穴水町に移動された。同町では20人が亡くなり、6260棟で全半壊などの建物被害が出ている。両陛下はマイクロバスに乗り、吉村町長の案内で倒壊した建物がそのままの状態となっている商店街などを視察された。その後、50人ほどが避難生活を送っている公共施設「さわやか交流館プルート」で被災者を見舞われた。被災した人たちに「おケガはありませんでしたか」、「お宅の被害がどの程度ありましたか」、「大変ですね」などと言葉をかけておられた。(※写真は、両陛下が見舞いに訪れた能登町の避難所=NHKニュースより)。

  臨時ヘリポートとなっている穴水港の広場では、地震による土砂崩れで16人が亡くなった対岸の由比ヶ丘地区に向かって黙礼された。この後、両陛下は再びヘリコプターで能登町に移動された。同町では災害関連死6人を含め8人が亡くなり、9090棟の建物が全半壊などの被害を受けている。大森町長の案内で、40人余りが避難生活を送っている町立松波中学校を訪れ、被災者と懇談された。その後、津波で住宅が流されるなどした白丸地区を訪ねた両陛下は家屋が倒壊し1人が亡くなった現場の方に向かって黙礼された(同)。

  両陛下は3月22日に輪島市と珠洲市、きょう穴水町と能登町を回られ、地震災害がもっとも大きかった奥能登を一周されたことになる。両陛下の見舞い訪問に、能登の人たちは「気をかけてくださっとる」と敬服していることだろう。金沢でニュースを視聴していても、被災地での丁寧な寄り添いの言葉や所作には共感する。

⇒12日(金)夜・金沢の天気   はれ

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★日米首脳会談に「貢献」 能登地震と輪島塗コーヒーカップ

2024年04月11日 | ⇒ドキュメント回廊

  朝の日差しに目が覚めてスマホでニュースをチェックし始めたころ、グラッときた。気象庁の地震速報に画面を切り替える。「発生:6時50分ごろ 震央地名:石川県加賀地方 深さ:ごく浅い マグニチュード:2.7」と出ている。そして、震源とされる地図上で赤の✖印がついている場所は金沢の山沿いで割と自宅に近い。これを見て一瞬、「森本・富樫断層帯」のことを思い出した。金沢市内を南北に貫くこの断層は、今後30年以内の地震発生確率が2%から8%と、全国的にもリスクが高い(政府地震調査研修推進本部公式サイト)。今回の揺れが、断層と連動しているのか。寝起きの悪い朝になった。

  アメリカを訪問中の岸田総理はバイデン大統領と会談した。メディア各社の報道によると、日米同盟を「未来のためのグローバル・パートナー」と位置づけ、防衛協力を深めるとともに、経済安全保障や宇宙など幅広い分野での連携強化を確認した。また、中国の動向をめぐっては、尖閣諸島を含めた東シナ海や南シナ海での力や威圧による一方的な現状変更の試みに強く反対することで意見が一致。さらに、アメリカの防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条が、沖縄県の尖閣諸島に適用されることを再確認した(11日付・NHKニュースWeb版)。

  いきなり不適切な表現かもしれないが、日米首脳会談がスムーズに運んだとされる背景には能登半島地震が貢献しているのではないだろうか。バイデン大統領は地震があった元日に岸田総理に見舞いの電報を送っている。「As close Allies, the United States and Japan share a deep bond of friendship that unites our people. (緊密な同盟国としてアメリカと日本は両国の国民を結びつける友情という深い絆を共有している)」、「 Our thoughts are with the Japanese people during this difficult time.(この困難な時期に、私たちの思いは日本の人々とともにある)」(※意訳、電報の出典は「ホワイト・ハウス」公式サイトより)

  岸田総理はこの見舞い電報を受けたことについてお礼を述べ、外交交渉をスムーズに運びたかったに違いない。日本時間の10日、夕食会に先立ち、見舞い電報のお礼を込めて、輪島塗のコーヒーカップとボールペンをプレゼントした=写真・上、外務省公式サイトより=。

  コーヒーカップにはバイデン夫妻の名前入り、青と黒のグラデーションが施されている。岸田総理は、被災した能登で創られている日本ではとても有名な「lacquerware(漆芸品)」と紹介し、被災した輪島塗の若手職人たちが今回のために特別に、100以上の工程を経て、心を込めて作製したと説明した(外務省公式サイト)。  

  岸田総理は2度、被災地を訪れている。一回目の1月14日はヘリコプターで上空から被災地の状況や道路など視察。避難所を訪れた。2回目の2月24日には輪島市で農業や漁業者、輪島塗の事業者らと車座で対話し、輪島塗販売店なども視察した。おそらく、このとき岸田総理はピンとひらめいたのだろう。4月の日米首脳会談で、バイデン大統領への手土産に輪島塗を持って行こう、と。(※写真・下は、輪島市での視察後の会見、総理官邸公式サイトより)

  夕食会などで輪島塗のプレゼントで話が盛り上がって、日米の絆を互いが確認し合ったとすれば、能登半島地震と輪島塗が日米会談の成果に貢献したといえるのかもしれない。

⇒11日(木)夜・金沢の天気     はれ

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☆両陛下、12日再び能登に 被災地に丁寧な足運び

2024年04月10日 | ⇒ドキュメント回廊

  先月22日に天皇、皇后両陛下が能登半島地震で被災した人々を見舞うため輪島市と珠洲市の避難所を訪れた。その様子をテレビを視聴していた。午前中に能登空港に到着し、両陛下は黒のタートルネック姿だった。そして、現地に負担をかけないようにと、昼食は東京から持参された。240棟が焼け、多くの犠牲者が出た輪島の朝市通りでは両陛下が黙礼をされた=写真、宮内庁公式サイト・4月2日付「被災地お見舞い」より=。避難所を訪れ、膝をついて被災者と対話する丁寧な所作に、被災者に寄り添う気持ちが感じられた。その両陛下はあさって12日に再び能登の被災地を見舞いに訪れると、メディア各社が伝えている。

  当日は午前中に羽田発の特別機で能登空港に。自衛隊のヘリコプターで穴水町に向かい被災者を見舞うほか、災害対応に当たる関係者をねぎらう。その後、ヘリで能登町に移り、津波の被害が大きかった地域など訪れ、被災者と面会する。夜に帰京する。穴水町では20人、能登町では8人が震災で亡くなっていて、被害が大きかった奥能登4市町をすべて見舞われることになる。被災者と対面する所作だけでなく、被災地域にまんべんなく足を運ばれる丁寧さには敬服する。

  一方で腑に落ちない国の動きもある。きょうの新聞メディアの記事によると、財務省は9日、税制制度等審議会(財務大臣の諮問機関)の分科会を開き、能登半島地震の被災地の復旧・復興は「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、住民の意向を踏まえ、十分な検討が必要だ」と訴えた。「被災地の多くが人口減少局面にある」ことなどを理由に挙げた。復興が本格化する中、無駄な財政支出は避けたいという立場を明確にした(10日付・北陸中日新聞の記事を要約)。

  うがった見方をすれば、そもそも能登は人口減が続いていて人がいなくなる地域なので、そんなところに無駄な財政を注ぎ込むことはない。と言っているようにも読める。記事では、分科会終了後に会長代理の増田寛也氏(日本郵政社長)が「家の片付けが進んでない地域に将来の議論をしようと言っても難しい」と指摘した、という。

  この指摘は言い得て妙な感じもするが、中央の権力者の発想ではないだろうか。地域行政が怠慢だと指摘して、そんな能登に財政を投下する価値はない、と言っているのか。地方消滅論を訴えた増田氏だけに、「消えるべき地域はさっさと消えろ」とでも言っているのか。増田氏をはじめ税制制度等審議会の分科会メンバーには一度、能登に足を運んでほしいものだ。       

⇒10日(水)午後・金沢の天気   はれ   

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★隆起した海岸に道路を新設 「逆転の発想」は成功するか

2024年04月09日 | ⇒ドキュメント回廊

  きのう午前中、鹿児島県大隅半島を震源とするマグニチュード5.1の地震があり、宮崎県日南市で震度5弱の揺れがあった。そして、午後10時29分に能登半島の尖端を震源とするM4.1の揺れがあり、珠洲市では震度3だった。元日の地震から100日目のきょう、能登半島では震度2から1の地震が6回もあった。不気味な日々が続いている。

  輪島の海岸線に沿った国道249号を走り、国の名勝「白米千枚田」の棚田を眺める。次に断崖絶壁の曽々木海岸を見ようと、国道を東方向に走らせる。本来ならば、あの勇壮な御陣乗太鼓の発祥地として知られる名舟町の海岸沿いを通過するのだが、地震で地滑りが起きていて、国道が寸断されている=写真・上=。結局、輪島市街地へ引き返すことになる。

  現場は山の中腹からの大規模な崩落であり、従来の道路の土砂を取り除くだけでは復旧は難しいだろう。この国道249号は能登半島の観光ルートでもあり、復旧・復興に携わる国土交通省とすれば、なんとか車の往来を復活させたいと考えたのかもしれない。そこで、浮かんだのが逆転の発想だった。

  きょう付の地元紙・北國新聞によると、国交省復興事務所は土砂崩れで寸断された国道の海側が隆起していることに着目し、海側の地盤を活用して道路を新設する。新しい道路の延長は800㍍で、うち海側430㍍で幅6㍍の2車線。山と海の両サイドに高さ3㍍の土嚢を積んで山からの崩落と高波の影響を防ぐ、としている。新たな道路は5月のゴールデンウィーク(GW)をめどに供用を開始する。

  簡単に言えば、地震で隆起した海側の地盤は陸になった=写真・下=。だったら道路として使おうという逆転の発想だろろ。もし、海のままだったら漁業権などが絡んで易々と事は運ばない。記事を読んでの前向きな感想は、山の崩落現場を眺めながら海道を走行する、じつにダイナミックなスポットではないだろうか。すぐ近くにある千枚田は1684年に起きたと言い伝えのある地滑り地帯で、人々が200年かけて再生した歴史がある。まさに災害史が刻まれた能登のスポットだ。

        素人考えだが懸念もある。日本海の冬の風や波は想像がつかないほど荒れることがある。海沿いの民家では、「間垣(まがき)」と呼ぶ長さ3㍍ほどの細い竹「ニガダケ」を隙間なく並べた垣根を造り、吹き付ける冬の強風に備えている。新しい道路には3㍍の土嚢を積む計画だが、強固なコンクリート壁の方がトライバーも安心できるのはないだろうか。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

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☆ 避難所の情報インフラは昔テレビ、今スマホ

2024年04月08日 | ⇒ドキュメント回廊

  先日(3月24日)能登の被災地の穴水町の避難所を訪れた。支援ボランティアとかではなく、トイレを拝借するためだった。穴水町はすでに断水が解消されていて、普通にトイレが使える状態だったので、公共施設でもある避難所を訪れた次第。中を見渡すと、避難所だけあって衣類や食糧(カップ麺、缶詰など)、菓子類などが自由に取れるように積んであった。1月に訪れたときは、台湾のボランティア団体がここで炊き出しを行っていた。

  この避難所には和室(畳部屋)だけでなく 椅子に座ってくつろげるロビーもある。そこで見かける光景は被災者の人たちが談笑している様子のほか、スマホを熱心に見ている人たちの姿だ。おそらく被災情報にアプローチしているのだろう、スマホを片手に罹災証明書の取得について話し合っている人たちもいた。避難所の和室の入り口にはスマホの充電コーナーがあり、自由に使えるようになっていた=写真・上=。この避難所の光景を見て、2007年の能登半島地震で訪れた避難所での様子とはずいぶんと変わったと時代の流れを感じた。

  2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)の後、震源地と近かった輪島市門前町で避難所となっていた公民館を訪れたことがある。公民館のホールでは避難者が敷布団を敷いて寝転がり、テレビを食い入るように見ていた=写真・下=。新聞は避難所の入り口付近に束のまま置かれていた。避難所の中では新聞を広げるスペースがないため、読む人は少なかったのだろう。テレビの設置はNHK金沢のスタッフが各避難所を回って取り付け、広めの避難所には大型画面のテレビを置くなど、情報インフラにチカラを入れていた。

  しかし、今回見た避難所ではテレビは設置されていたものの、避難者の多くの人はスマホ画面を指でなぞっていた。AppleがiPhoneをアメリカで発売したのは能登半島地震から3ヵ月後の2007年6月だ。あれから17年、知りたい情報を自分で探す、日常生活でそれが当たり前になった。避難所の風景も変わった。ただ、充電設備を整えるという点は「ガラケー」時代と変わらない。 

⇒8日(月)夜・金沢の天気   くもり

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