魚のアトリエ”うおとりえ”

新鮮な魚を美味しく食べたい!!
 「魚っ食いの365日

越後へ米買いに

2010年10月20日 | 食材の源流を訪ねて
 食材の源流を訪ねる旅
 「主夫の台所」を始めてみると、先ずは買い物、食材調達をすることになる。しっかりとした家を建てるには、確かな建材・資材を調達をするのと同様に、健康的な食事を作るには確かな<食材調達>は欠かせない。何が確かな食材なのかを知るには、食材の生産者を訪ねてみるのが一番。
 食材の知識のみならず、独特の食べ方、産地の事情、生産者の意見、生産者から見た消費者の姿など、得るところが多い。より良質な食材を求めて、「源流を訪ねる」ことにしている。その多くがわが家の定番食材となっている。

 魚沼産コシヒカリ
 越後にお米を買いに行き始めて8年る。新米のとれる秋と、初夏5月の年2回。新潟・南魚沼市の知人を頼って頒けて貰う。
1回に60kgの玄米、これが半年分、精米をしながら食べる。わざわざ遠いところを行かなくても宅急便で送ってもらえばよいのだが。
それでは、生産者との会話が出来ない。会話がしたくて出かけることになる


 紅葉見物を兼ねて
 10月18・19日新潟・長野に行く。魚沼から秋山郷を経て、志賀高原へ。さらに妙高高原へと車を走らせた。ことしの紅葉は、夏の猛暑のせいか、鮮やかさがないように見受けられた。米作りにも影響が出ていると言う。自然の力は偉大で良くも悪くも従わなければならない。 

秋山郷のはちみつ
 養蜂家の売店がある。りんご・とち・アカシアなど、500g入りを3壜もとめる。秋山郷に来たら必ず此処による。途中、近くに巣箱を見ることもある。信濃川流域で採取するものが多いという。流域には果樹が多い。真っ赤に実るりんごの樹も沢山見た。女王蜂、働き蜂、雄蜂の3種類がいて、それぞれの役割があること。働き蜂の寿命が2,3ヶ月であることを養蜂の現場で聞くと、いとおしくなる。

 放牧場の牛に牧舎がないこと
 牧場の中にある宿に泊まる。夏の間中ここで過ごし、秋に里に下るのだと言う。三千坪に一頭と聞く。大変贅沢な避暑である。旅館の周囲の草を朝から食んでいる。辺り一帯そここに大きな糞が落ちているが、汚いとも感じない。ここが牧場なのだから。ここには周囲の柵はあっても牧舎はない。風雨の中でも樹木の元など外で過ごすのだということを始めて知って驚いた。この牛が肉となり、牛乳を供してくれることになる。牛肉や牛乳を買うとき、食すとき、この牛の姿を連想することがあるだろうか。ただ陳列の肉を見て、うまそうかどうか、値段を見るのみである。元の姿を見ずに忘れていることが何と多いことか。申し訳ない。

 魚は切り身や刺身、回転寿司のネタのみ。元の姿を知らない人が多い。意識もしない。目のある魚は怖いからいやだと言うことも聞いたことがある。落花生は空中にぶら下がってなっているものと思っていた、と言った人を知っている。これこそ怖い話である。

 長くなってしまったが、これからも「源流の話」を書いてみたいと思う。
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魚の臭み

2010年10月20日 | 魚食生活
 魚は臭くない
 私が市場から買ってきた魚をさばいて、臭いと思ったことはない。ところが魚は臭いものと信じ込んでいる人が多いのは残念なことだ。
大抵の料理本にそう書いてある。臭みをとるためにために、ああしろこうしろと。まな板は、魚用と野菜用と区別しろと。下ろすときには、まな板が汚れるから新聞紙を下に敷いて、ハラワタはそれに包んで捨てろと。

 新鮮な魚は臭くないのに、取り扱いや自分の始末の悪いことを棚に上げて。まるで悪者扱いされている。つまり冤罪である。
まな板は使った後、よく洗えば済むこと。手が臭ければよく洗えば済むこと。新聞紙を下に敷いて魚が上手く下ろせるわけがない。臭い魚魚が刺身で食べられるはずがない。

 臭い魚が平気で流通していることこそが問題なのであって、魚に罪はない。消費者にあるいは料理の専門家にそう思われているのに、一向にそれを改善是正しようと思わない流通関係者は何を考えているのだろうか。テレビで見かける築地市場の人が、新鮮な魚の見分け方を解説している姿、あれほど不思議なものはない。

 新鮮な魚だけを流通させるようにすることが本来なのに。販売している魚屋さんの不始末ならば、改善を指導するか、新鮮でない魚を売らないように指導するのが本来なのに。「魚の臭みはこうして取り除きましょう」と言われて悔しくないのだろうか。消費者に魚は臭いものと思われていて魚の消費が伸びるはずはない。親切めかして消費者教育でもしているがごとき解説を聞くたびに腹立たしくてならない。

 確かに、新鮮な魚であっても匂いがないとは言えない。それはそれぞれの魚が持っている、むしろ香りであって、腐敗にいたる過程の臭気とは区別されるべきもの。果物だって、野菜だって固有の香りがあるから、そこに値打ちがあるのに。仮に無臭の魚があったらその魚は本当に美味しいだろうか。

 築地の移転問題が取りざたされているが、新鮮な魚の流通がどうあるべきかを考えないと、移転か再開発かいずれにせよ、魚そのものが見放されたら元も子もない。家庭で魚を調理して一番困ることは、内臓などの廃棄物の問題。これこそが一番の嫌われもの。どうしたら、ゴミ回収日まで臭くならないか、その方法を研究してもらえないだろうか。

 消費者に新鮮で美味しい魚を提供することを心がけるならば、その心は漁業者の方々に通じて、最適な獲り方をするようになるようになるのではなかろうか。確かに魚は鮮度保持が難しい。しかし、生産者から流通、消費者に到るまでこの”鮮度感”を大切にしなければ鮮魚の将来はない。わが国は長い海岸線を持つ国なのだから、新鮮で美味しい魚を食べない手はない。
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