絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

なんだ、撤回ですか。。。

2006年07月23日 23時49分34秒 | Weblog
1週間もたってないと思うけど、欽ちゃん、もう前言を翻したのですね。
山本事件真相はどうあれ、欽ちゃんの野球やめます発言は、
襟元がすうっと寒くなるほど「潔かった」のに。。。
(球団自体をなくすのはある意味無責任とも言えたけど、)
いまどき、どんな悪事が露見しても責任逃れがはびこる中で
これだけ断固とした決断をできるということがすごい!と
思いましたが…
「夢列車、、、どこにもたどりつかないでね、、、」といったとき
それを聞いた人はきっとみんな涙ぐんだと思いますよ~~
(その涙、返して~~)

まあ、結局自分ひとりのものではないということで(野球は)
また気を取り直してがんばる、ということなんでしょうね。

それにしても、吉本も、「淫行」疑惑の山本は即クビで
女社員に暴行したシンスケは、またまたずっと稼がせてるのって…
(泣いて謝ったから許されたの?)基準がわからんわ???


予定は未定

2006年07月23日 23時25分37秒 | 一絃琴
今日は本当は一絃琴の先生のお宅で、先生の知り合いの方が
琵琶を演奏して下さるのを聞きに行く予定だった。
しかし、急用で行けなくなった。
最近そんなのばっかりだ。

2,3日前に、ある七弦琴のサイトを見ていたら
一絃琴のことも少し書いてあった。
このサイトはいままで全然知らなかったものだ。
琴と筝の違いは琴柱の有無ではない、とあったが
何の違いかまで、書いてあるところをまだ探せていない。
(現在のこの認識への批判が書いてあるのは読んだ)

琴にしろ筝にしろ、それを弾く人の気持ちはいろいろで
教授する指導者の方の考えもこれまたさまざまだろう。
このサイトをみていて感じるのは、不思議に一絃琴のときに
感じたことと同じ匂いがすることだ。
非常に大切に思いながら、これがポピュラーなものとなって欲しくはない
という考え、ある種の選民思想、選ばれものたちだけがその価値を
見いだし、共有するという…高みからものごとをみる姿勢だ。
(そしてやはり同じように他の楽器を低くみなす。)

自分が好んでその楽器に携わるのは結構だが
だからといって他の楽器を低くみなすこともないと思うが。。。
(また、そのためにわざわざ理屈をこねることもないと思うけれど)

洋楽にしろ、邦楽にしろ、はたまたその他の芸術、工芸というようなもの
でも、その道を窮める人はみな同じような哲学を述べる、
と常々思う。それは、スポーツでもいえるかもしれない。
自分の携わることについては言及しても、類似した他のことについて
比較して、よりその意義を強調するというようなことはしないと思うが
どうなんだろう。
いつもこの排他的な空気に窒息しそうになる。。。




日経新聞 プラス1

2006年07月22日 22時18分02秒 | 子ども
毎週土曜日にこの新聞には特集版がついてくる。
いつも楽しみにしているのだが、今日は中の記事に
子どものお子遣いについて書かれていた。
読まれた方もあるかと思う。
「国家の品格」がベストセラーになり、なんとか
品位ある国にならんものかと、有識者たちも奮闘しているが
このお小遣いの記事を読んだなら、みながっくりくるだろう。

わかりやすく、イラストなど入れて、
子どものお金の使い方や、子どもへの与え方などを書いているのだが
その一方法として、会社の給与のように明細で区別して与えていた。
たとえば「基本手当て」「勉強がんばり手当て」「お手伝い手当て」…
のように。
いくつくらいの方の案なのだろう?これを読んで
もう、自分は小学生の親として彼女らとは断絶の世代であると確信した。

もともと古臭い考え方と自覚しているが、
現役の母親たちは、こんなふうに子育てをしていたのか。。。。。
自分の周りには、この手の人はいないように思うが
それはもう、少数派ということなのか。。。

「お手伝い」にお駄賃、くらいはかわいらしいが、
これが毎月手当てとして加算されて小遣いが支給?されるなんて。。。
「自分のために」する勉強を、そのがんばり具合がお金になるなんて。

家庭のど真ん中に「お金」があるんですね、いまや。
そうなのか…お手伝いは家族の一員として当然のことで
それをお金に換算したりしないのが自分の考え方だったけど
もう、そんな話はどこにも通用しないとみた…

児童会がない

2006年07月22日 02時11分48秒 | 子ども
小学校つながりで思い出しましたが
うちの学校には児童会がありません。

前々校長の時代に「人気投票になっている」という理由で
廃止になったそうです。(ほんとにこの理由かなあ…?)
ちょっと異常な感じがします。(これも「独自の理論」てやつかも?)

ですから、子どもたちは民主主義の一番低レベルの形式すら経験できずに
小学校を終わります。(嘘のようなホントの話!)
社会で議会政治とか習っても、「話し合い」によって決定していくことや
意見を闘わせることがどのように実際行われるのか、経験しないわけですから
ほんとに、『絵空事』に過ぎないことになります。

子どもたちが自分自身で考え行動する、ということを世の中をあげて
言っていると思うのですが、現実にはこんな小学校が存在します。
仕組みとして、子ども自ら、ということを排除しているわけですから
そんな自主的な人を育てられるわけもありません。

また、3年前には、運動会においての紅白応援合戦も
廃止されました。
6年生の子どもが応援団長になって、紅白それぞれエールを送るものです。
これも、意味がない、ということで無しになりました。
こういう場面で、俄然張り切る子どもとかいると思いますが
活躍の場は失われました。(目立つことはいけないこと?)

学校も、口で言っていることと実際の行動が合致していない世界です。
ある種独特の理屈で回っている、それで済んでいく(特に小学校)
そういう社会であります。(多かれ少なかれ)
立ち行かなくなるのは『上』(市教委、県教委)がでてきたときだけです。

新聞の「ひろさちや」氏の記事に、「ほんとうのことはいうな」と書かれていて
「真実を言うことは相手を傷つける」とありました。
ほんとうにそうなのか?どんな場合も「真実は人を傷つける」だけなのか?
私には理解不能であります。。。
現実にこんな学校が存在し、自分の子どももそこで育つのです。
(学校とは、だれのために存在するのでしょう?)
ほんとうにこのままでいいのでしょうか?


スープカレー(名物じゃないよ)

2006年07月22日 01時30分30秒 | 子ども
キャンプのカレーで思い出すのは、水が多すぎて
しゃぶしゃぶの、スープのようなカレーが出来てしまったことだ。
子どもが火起こしのことを心配しているので
いっしょにしおりを見ていて思い出した。

以前、この5年生のPTA行事でカレー作りがなくなったことを書いた。
本部役員の「カレー以外にものに」という意向が反映されたが、そのとき
校長先生の『むしろ練習などしないほうがよい、そのときのいろいろな
失敗も思い出になるから』等々の発言があって、結局陶芸になったようだった。

行事は「カレー」でなくても良かったが、
この「ぶっつけ本番」主義には正直驚いてしまった。
なにごとも練習どおりには行かないものだが、「練習不要論」で考えるなら
教育そのものが不要となるのではないかと思う。
なぜなら、いわばさまざまなことの「練習」を教育の場で行っていると
思うからだ。

「芯のあるご飯」ができてしまった班、「スープのようなカレー」に
なった班、などなど、一生懸命同じ時間をかけてやっても
出来上がったものが明らかに失敗になってしまったとき
「それもよき思い出」と子どもは感じるのか?
・・・答えは否!である。

失敗も思い出のうち、などと言えるのは当事者でないものの気持ちだ。
現実に上手く出来上がった班だけが「やったー!」という
達成感を得ることができ、
失敗作の班の子どもは「こんなのになっちゃった。。。」と
何がいけなかったか、わからぬうちに食事が終わるのである。

あのとき、ひどいご飯だったね!…と笑って言えるのは、
もっと時が経ち、そのときの落ち込みが消え去ってからのことなのだ。
校長先生も、もう大人の時間を過ごしすぎて(50過ぎ)
子どもだった頃の気持ちを忘れてしまったのかな、などと思う。
(小さかった頃、自分はどんなふうにものごとを考え、感じていたか
もう覚えていないのか…)
子どもの目線って、小学校の先生にはとくに忘れてほしくないけど
「子ども時代の自分」をもう持っていない先生方ばかりのようだ。。。


独自の理論

2006年07月21日 10時59分34秒 | Weblog
いろいろな業界で、これまたいろいろな不祥事が次々と明るみに出て
「いったいどうなっているんだ!」「今の日本はおかしいゾ!」
などと思う方も多いと思います。

マスコミがさまざまことを「これ、こんなふうにひどい!」と
暴いてくれるので、ますます国民のだれもが「そうだ!みんな国の責任だ!」
などと世論も高まってきます。
しかし「国の責任」とは何か、「国が責任を取る」とはどういうことか
といえば、すなわち国が賠償するということであり
それに税金が使われるということであります。

そして、国民が「こんなことをしていたのか!」と驚くようなことが
実はその業界では『一般的』『日常的』に行われていたりして
逆に「えっ!いままでずっとこうしてきたのに、なんで急に駄目なのか?」と
その世界の人は思ったりする。。。

いろいろな小さな社会の中で、独自の理論がまかり通っているのは
いまに始まったことではないと思いますが、こんなに不祥事が多いのは
情報がさまざまなかたちで明らかにされて
それがかつてのようには隠し切れなく?なってきたのではないかとも
思えます。

情報開示によって、特殊な「独自の理論」が世間一般の常識に
さらされて変わる、そういう時代になってきたということなんでしょうか。

キャンプを前に

2006年07月21日 10時19分16秒 | 子ども
今日から夏休み。お天気のせいか、全然そんな雰囲気じゃないですね。
依然として明ける気配なしの梅雨空です。
日曜日キャンプですが、天候もよくないようですね。
子どもたちも、おたふくやら風邪やらと体調崩している子もいます。
うちも、鼻水など出てきて大丈夫なのか!?


『いよいよ、待ちに待ったキャンプだ!』という感じがないので
何か心配なことでもあるの?と子どもに聞いてみました。
すると・・・自分は「かまど係」になったけれども、うまく火起こし出来るかどうか
すごく心配だ、「リネン係」も兼務だけどシーツとかどんな風に畳むの?
・・・などなど、「ちゃんとご飯ができるのか?」「役割が果たせるのか?」
そんなことを心配していて、楽しみにする余裕がないようでした。
まあ、いろいろな性格の子どもがいるので
全員がうちの子みたいに考えているわけではないでしょう。

まえに、授業参観のあとに、親子一緒の説明会がありました。
そのときの私の印象は、先生が「施設を絶対に汚さないように!」
「来た時よりもきれいにして帰りましょう!」ということを
強調していたことでした。
当たり前のことが守れないので、こんなふうに強くいわなければ
いけなくなったのか、もともとこんなのなのか分かりませんが・・・。
部屋での飲食は禁止なので、水筒のお茶を飲むのもロビーまで行って飲む
よう指導されていました。
自分の頃もそんなのだったかなあ、、、と
思い出せない記憶を手繰り寄せてみたりするのでした。。。



旅の始まりは・・・

2006年07月20日 00時25分44秒 | 子ども
旅というのは、その行き先がどこであれ、
行こうと思い立ったときからもう始まっている、といえますよね。

朝一番の電車に乗り、目的の駅に降りたつ、
あるいは機上の人となって遠い異国の地に舞い降りる・・・
いずれにしても、その旅を思い描いたときから
もうこころはすでにその地に向かっていて
あれこれと計画をたて、シュミレートするのを楽しむのです。
そして、出発の日には、いよいよそのことが実現するのですから
もう、わくわくしてしまうわけですね~~


・・・って、だれしもそうだと思ってたんですが
今度自然教室があるのですが、うちの子はなんか全然
わくわくしてないんですね。
どうしてなのかしらん。。。醒めてるというか。。。
『いよいよキャンプだね!』とか私が言っても
「それがどうしたん?」・・・みたいな感じなんですよ。
どういうことなんでしょうか。。。
なんか、悩みでもあるのか?と思ってしまいます。
班も、クラスの座席の班ですし
特別変わりないと思っているのでしょうか。

雨天でも飯盒炊爨できる、近代的な?設備があるようですが
作業そのものは、マッチをすって新聞紙に火をつけ、薪に燃えうつす
昔どおりのやり方ですね。(チャッカマンじゃないんですね)
マッチそのものが、もう生活から消え去っているようにも思われますが。

豪雨です

2006年07月19日 08時30分05秒 | Weblog
半端な量じゃない雨ですね!

もう永遠に梅雨は明けないんじゃないかと思ってしまうほどの雨!
それに、お天気よかったときと大違いの低温です。
肌寒いってやつです。
風邪引きそうだ。。。
いつもなら、夏休みに入る頃には明けて、
うだるような暑さになるんでしたが、、、
日月と5年生はキャンプなのに、まだ明けないようです。

キャンプといっても、冷暖房の施設に泊まります。
自然教室という程度ですね。
ヒルがいるので、長めのソックスを履くといいですね~って
説明会のとき、先生から軽く言われてしまいましたが
「ヒル」ってそんなものでした?
(いままで、見ていても気づかなかったのかな)

雨、雨、あめです

2006年07月18日 08時16分29秒 | Weblog
明け方すごい雨。
もういい加減梅雨も明けてくれないかなあ。。。

連休を無為に過ごしてしまい、今日もやる気出ません。
朝刊掲載の「ひろさちや」さんの文を読んで余計やる気なくなりました。
この方の本、いくつか読みましたが、ここまで達観できませ~~ん。
(まあ、達観できれば禅のこころがわかったということでしょうが)

「あるがままに」はいいけど、じゃあどうすれば
小さいながらも前へ一歩進めるのか?
自分がこの人の言うことを真に理解できるときは
現世とおさらばするときだ、とか思い、不遜な気持ちになるのでした。。。


若狭の海

2006年07月17日 17時07分54秒 | Weblog
↓の記事で、人工島なのは「水島」でした。
水晶浜は、敦賀半島の西側になります。
「水島」は東側です。この付近には温泉もあるので帰りに
温泉に入って帰ることも出来ます。
・・・しっかり日焼けするので、あとが恐いかも

ハッピィーマンデー

2006年07月17日 12時08分20秒 | Weblog
「海の日」っていつから国民の休日になったんでしたっけ?
この夏休み前の連休、夫の用事やらなんやらで
結局どこへも行かずじまいになってしまった。
(お天気もいまいちの、夕立やらなんやらでしたが)

この3連休がらみで海外に行く人も多いかと思うが
子どものいる場合は結局何日かは学校を休ませることになる。
いまどきの小学生は、夏でなくても秋でも冬でも結構休んで旅行に出かける。
。。。というか親が連れて行くわけだが・・・
(この、旅行のために学校を休むというのが自分にはできない)

夏場、近場の海水浴、うちはどこへ行くかというと
やはり福井方面、ダイヤ浜、水晶浜あたり。
水島は人口の浜だそうだが、舟に乗って沖につくられた白砂の小さな島へ
渡るのだ。うちの地域の人は結構この方面に行っている。
この海の透明度はすごい!初めてみたときは感動ものだった。
いろいろな磯の生きものもいるので(海老もうようよいます)
泳ぐだけでなく小さい子も楽しめる。
・・・ただし、お母さんには苦痛かも。。。(日陰がない、海の家もない)
トイレはあるけど・・・
沖まで行かない海水浴場には、海の家もあるけど
江ノ島のような都会派のものではない。
最近は、海水浴は低迷だそうだ。
都会のプールの方が人気があり、海といえばみな海外へ行ってしまうのかもしれない。

ああ~、今日もお天気は悪く、出かける予定もない我が家は
退屈な時間を過ごすのだった・・・!

土曜スクール

2006年07月16日 21時46分08秒 | 子ども
去年からうちの学校は(うちの市では)2学期制をとっている。
前期は10月の初めの体育の日に連なる3連休前まで
その3連休を境に、後期が始まるのである。

去年まで、生活科や総合学習など、ほとんど遊び?のような内容
だったが、5年生になって、急に勉強らしい?内容になって
正直、びっくりしている。
とくに社会。去年の社会は、ほとんどこの自治体のごみ分別を
詳しく実践的にやったあと、リサイクル施設の見学などやって
1年の半分を費やした。
自分の頃と格段の相違があるのは、自分の頃は学習がまずデスクワーク
中心であり、「社会」などは自分の生活というより、日本全体を把握する
そういう観点で教育カリキュラムが作られていたということだ。
それによって、りんごの産地は知っていても自分の地域のことはよく知らない
というような弊害があっただろうことは否定できない。
日本全体を知ることも、自分の地域をよく知ることも大切なことなのに
どうしてこんなふうに、極端なことになってしまうのだろうか。

5年生の子どもたちが今やっている学習は、日本の地理を知った上で
成り立つものだが、果たして都道府県など全部わかるかどうか疑問だ。
また、算数では充分な問題の経験もなく、次の段階に移っていっている。
どの教科もそうだが、特に算数は土台となる部分がしっかりしていないと
その上に積み重ねることがなかなか難しくなる。
すでに今の段階でもう「お客さん」になってしまっている子どもが
ひとりやふたりではないことが、いままでの学習方法では立ち行かぬことを
物語っている。
こういう状況下でも、先生方にとくに危機感がないのは
私には理解できないことだが、きっと授業時数が足りないから仕方ない
というようなことで納得して?おられるのだろう。

この授業時数が足りない部分を補習授業という形で学習する
「土曜スクール」の実践が行われている地域がある。
それを担うのは、退職校長やボランテイアだ。
実施されているところでは、親だけでなく子どもたちにも好評のようだ。
ただ「勉強する」だけなら家でもできるだろうが
友だちと一緒に勉強するのが子どもたちにはうれしいのかもしれない。

学習にしろ生活にしろ、子どもをめぐる環境は激変している。
単純に昔と比べてみても詮無いことである。
しかし、教育を決定する『政治』も世論を無視しては行えないので
子どもの親たちは「政府が決めたのだから仕方ない」といわず、
思うところを声に上げていくべきではないかと、切に思う。

相互扶助のかたち

2006年07月16日 13時49分16秒 | Weblog
今朝の地元紙に↓の記事の「徳川・・・」を書いた篠田氏のコラムが
載っていましたね。教員の待遇についての意見でした。
(給与削減、免許更新制の話)

まあ、それとは関係ない話ですが
図書館や社会福祉などのボランティアをやっていて思うことは
(現代ではボランティアも多様化してはいますが)
かつては社会の枠組みにあった『相互扶助』が
いまは、意思はあるが関係性のない人々によってなされる時代
となったのではないかということです。

知り合いの中で頼みごとをするよりかは
仕組みの整ったところに依頼して、あらかじめ意思があると申し出てくれた人に
離れた場所からきてもらうほうが気が楽ということなんでしょうか?
また、ボランティアする側も、近場の人に頼られるより
「契約」に近い形で奉仕する方がやりやすいと思っているのでしょうか?
他者のために労力を提供したい人とヘルプを望む人とのコーディネイトは
いまのような形しかないのかと、ふと考えるのですが。。。

晴れるのは今日だけ?

2006年07月15日 15時26分06秒 | Weblog
もう梅雨明けかと思われるようなお天気です。

全くの夏です!子どももあの雲は夏の雲だ!などと言っています。

昨日は7月最後の本の修理の日でありました。
PTA室はもちろん冷房なんぞありません。
去年まであった大型扇風機もどこかへ行ってしまいました。
(どこいったんだろう・・・)

うだるような暑さの中、11人でぼろぼろの本の背表紙を
テプラで打った題名など貼って補修します。
どの本もぼろぼろ。。。これらはみな学級文庫の本で
図書室の本は去年やったっきり、まだ手付かず状態。
(しかもまだ1~3年生が終わっただけ。)

しかし、みなさん、文句も言わずあれこれ子どものことを
話しながら、作業しています。
毎週やっているので、もう7回かなア…
補修テープやらなんやらどんどん無くなっていきます。

スクールサポーターという制度も、これからどうなっていくのか
わかりませんが、なにはどうあれ協力してくれる人が
少なくともこんなにいるというのは喜ばしいことですね。
できれば、教育委員会や校長先生の考えでボツにならないような
独自の流れをつくっていければいいと思いますが
そのためには、どういうことが必要なのか、よくはわかりません。

とりあえずは、卒業生の親御さんも関われるよう
今年度の終わりには、募集をかけて登録してもらうよう
準備することを校長先生と相談して決めましたが
どれくらい残ってくれるのか、心もとないです。