旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

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その後の親父日記 5

2014-06-20 16:03:12 | その他
 今日も仕事の曜日なのだけど、休みをもらいました。

 あとから、おまいりに来てくれたりする人もあるので、実家には誰かいるようにしておきたいということなのですが、そんなに頻回にお参りに来てくださる方があったりするわけではないので、基本、暇です。


 朝はオークションの出品をしながらワールドカップのギリシャ戦を見ていました。

 まあ、じれったい展開でしたが、どうも、あまりドキドキしたり、気持ちが盛り上がったりしません。
 悲しいとかつらいとかいうような単純に一つの言葉で整理できるような感情が表立って強いということもないのですが、
 食欲なども含めて、いろんな感覚がまだ日常に戻っていないのだと思います。

 で、今日は年金事務所に出向いて手続きをしようかと思っていたのですが、年金事務所に電話すると、まず書類を送りますということだったので、こちらが用意する書類もそろっていないのにいきなり行っても意味がないと思い、出向くのはやめました。
 年金関係は宇治の近鉄大久保駅の近くか、あるいは伏見の竹田、国道24号線のにぎり長次郎という回転寿司の向かいあたりの事務所で手続きをします。
 別に書類が手元でそろえば郵送でいいとのことです。

 これ以外に国家公務員共済、私学共済の年金もあるので、これもそれぞれ年金番号を調べておいて電話をかけて書類を送ってもらうようにしました。

 その後、実家へ行って、水やりをして、ちょっと掃除機をかけて、あとはいろいろ廃棄できるものを廃棄。
 自分らが住んでいた時に使っていた古いでかい電子レンジをゴミとして捨てました。
 25キロぐらいあって、その時は感じなかったけど、どうも、あとから腰の調子がちょっとおかしいです。

 考えてみたら、明日は土曜ですから、親父さんが亡くなって一週間ということになります。
 ふりかえってみると、この一週間は、なにか「一瞬」という感じがします。というか、通常の時間の概念とは違う時間の経過という感じかな。

 その時々の一瞬一瞬は非常に長く感じられたりするのだけど、全体として振り返ると、それは「一瞬」のように感じられます。かつて感じたことがない、不思議な感覚です。

 そもそも、理屈としては親父さんが亡くなったことはわかっていても、感覚的には自分の中でまだそれがなにかそぐわない、フィットしないようなところがあります。

 ここ2年くらい、ほぼ毎日、午後には病院へ行くようにしていました。気候がよく、体調も落ち着いている時はリクライニング式の車椅子に乗せてもらって、ちょっと散歩に行ったりしていました。
 なので、なにか今でも、あの病室に行くと、親父さんが同じように寝ていて、声をかけると「あー」とか返事をしてくれるように気がするのです。
 
 これは、もう日々のルーティーンの日課になっていましたから、頭の中には、まだその記憶、印象が残ったままという感じがします。
 これ、禁煙して、もうそんなにすごくタバコを吸いたいとかイライラしたりとかはないのに、朝とか食後とかに、フッと「あ、今、このタイミングでタバコを吸っていたな」というのを思い出すのとちょっと似ているかもしれません。

 あ、そうそう、荷物を整理していたら、もう20年以上前に亡くなった母親の名義の一枚ものの預金の証書みたいなのが出てきました。これ、「有効」なのだろうか?。だったらいいのですが、来週、また聞いてみよう。



 
コメント
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