名水と名城の旅 加賀・白山山麓と越前・丸岡城(3)
弘法池の水に向かいます。
海際から田園地帯をぬけて、山麓に向かうルートは、黒部市で宇奈月温泉へ向かうルートの雰囲気と似ています。
そりゃ、地形というか、海から少しの平野部を経て、山間地へというのは同じですから。
名水に行く前に昼ごはんも兼ねて「道の駅 一向一揆の里(食彩館せせらぎ)」へ。
ここでお蕎麦をいただきました。うん、そこそこおいしい。地元のそば粉を使った乾麺も売っていたので購入。
つららが長く垂れ下がっていました。
すぐ隣に一向一揆歴史館があります。
小さい資料館ですが、歴史をまとめた映像資料も見られ、地元の中学生が制作した大きな版画もあったりします。
この地は加賀一向一揆があった場所。門徒集団である山内衆の抵抗の拠点であり、正面の山は鳥越城跡です。
この土地、この城で、信長の勢力に立ち向かった人たちがいたのです。
この山の上が城跡です。当時としてはかなりの規模のように思います。
宗教勢力が一国を治めたというのは、日本の国の歴史の中でも、ほとんどなかったこと。
映像資料の中では、最後は磔にされて、河原は血に染まった云々のコメントもありました。
Wikipediaより
鳥越城跡
「歴史
白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正初年(1573年)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられる中で、
門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもの。
天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。その後この城は織田方の吉原次郎
兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。
しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。
この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつ。」
ここのことは全く知らず、たまたま入った道の駅で知ったのですが、勉強になりました。
つづく。
弘法池の水に向かいます。
海際から田園地帯をぬけて、山麓に向かうルートは、黒部市で宇奈月温泉へ向かうルートの雰囲気と似ています。
そりゃ、地形というか、海から少しの平野部を経て、山間地へというのは同じですから。
名水に行く前に昼ごはんも兼ねて「道の駅 一向一揆の里(食彩館せせらぎ)」へ。
ここでお蕎麦をいただきました。うん、そこそこおいしい。地元のそば粉を使った乾麺も売っていたので購入。
つららが長く垂れ下がっていました。
すぐ隣に一向一揆歴史館があります。
小さい資料館ですが、歴史をまとめた映像資料も見られ、地元の中学生が制作した大きな版画もあったりします。
この地は加賀一向一揆があった場所。門徒集団である山内衆の抵抗の拠点であり、正面の山は鳥越城跡です。
この土地、この城で、信長の勢力に立ち向かった人たちがいたのです。
この山の上が城跡です。当時としてはかなりの規模のように思います。
宗教勢力が一国を治めたというのは、日本の国の歴史の中でも、ほとんどなかったこと。
映像資料の中では、最後は磔にされて、河原は血に染まった云々のコメントもありました。
Wikipediaより
鳥越城跡
「歴史
白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正初年(1573年)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられる中で、
門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもの。
天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。その後この城は織田方の吉原次郎
兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。
しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。
この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつ。」
ここのことは全く知らず、たまたま入った道の駅で知ったのですが、勉強になりました。
つづく。