土曜日は札幌の親戚の告別式に参列した。
水曜日の夜、訃報を聞いたのだが、信じられないとか寂しいとかではなく、一度もお見舞いに行かなかったことによる後悔とか
そういうのでもなく、小さいころにお世話になった思い出がよみがえってくるわけでもない、まさしく言葉に言い表せない気分になり、
頭の中のある部分だけスコーンと抜けた状態のまま札幌へと向かった。葬儀会場に入ると、祭壇にその方の遺影が飾られているが、
目の前のことなのに違う次元で起きていることのように思えて仕方ない。”スコーーーン状態”がだんだんと頭の中で広がっていくようだった。
最前列のご親族と二列目の両親の姿は確認したが、隣に座ってきた人が兄で、「前を失礼します」といって横切った参列者が、
年の離れた従兄だということにしばらくの間気付かなかった。我に返って周りを見渡すと、顔見知りの親戚が他にもいたり、
故人と親しかった方々もいたりと、ようやく正気が戻ってきた。しかしご遺体を目の前にすると、再び思考が止まる。
化粧を施しているせいなのか、どうしてもその方であると認識できない。
火葬上に向かうまで、他の親戚と会話しているといくらか気分が楽になってきた。
私はその亡くなった方の3人の子供たちと年が近くて、中学生になるまでよく遊んだ。その3人やほかの参列者と話をしていると、
さらにそのなんだかよくわからない気分からは解放されていくのだが、焼き上がってお骨を眼の前にしたら再び頭がフリーズ。
先ほどの従兄にそのことを話すと、「そんなもんだよ。時間が経つにつれてだんだんとわかっていくものなんだよ」と言っていた。
どうやらその亡くなった方は、私の頭の中ではまだ死んでいないということなのだろう。
・・・じゃあ、時間がたてば本当にその方の死を認識できるんだろうか。
一晩明けてまたこのモヤモヤというか、なんともいえない気分がまたジワジワと広がってきた。
気分を切り替えて今日は次男の学芸会だった。
現在の小学校では、全児童で互いの発表を鑑賞する日と、父兄が鑑賞する日に分かれているそうだ。
児童は自分の出番の時間だけ出席すればよく、親は我が子の出演の時だけ学校に来れば事足りるのである。とても効率的だ。
そして明日の月曜日は休校日。ほぼ3連休。次男だけでなくみんな大喜びだろう。
そんな土日でした。