妻一人 子一人 と 一匹

2005.9.26 『妻一人 子一人』としてスタート
2010.3.18、2021.8.28、2023.3.26 改変

血は水よりも濃し

2012年11月30日 22時36分35秒 | Weblog
今年の8月、帰省も兼ねて札幌のホテルに家族で宿泊した際に

風呂場で転倒し風呂場の壁を破壊、背中を6針縫う傷を負った私。



先日、107歳で亡くなった大叔母さんの葬儀に、親族代表として私の両親が函館に行った際のことである。

母が火葬場でつまづき、左足が靴も履けないくらいにパンパンに腫れて、

片足だけスリッパで函館から札幌まで帰ってきたそうだ。

病院に行ったところ、左足の小指を骨折。まだギプスが取れないとのこと。


・・・やっぱり親子だなと思った・・・

若大将シリーズ

2012年11月24日 22時46分45秒 | Weblog
今月もあと一週間。早くも師走の時期である。

年賀状、クリスマス、大掃除などなど、やらなければならないことが目白押しである。


今年掲げた目標の一つに、「若大将シリーズ 全話コンプリート」というものがあった。
なんでこんな目標を立てたのか忘れてしまった。ただなんとなく・・・という程度のものだろう。
全17本中、ようやく第16弾「若大将 対 青大将」までを見終えた。

<若大将シリーズ>、「大学生編」と「社会人編」に分けられる(ウィキペディア参照)
「大学の若大将」(’61)に始まり、第6弾「エレキの若大将」(’66)までは面白かったのだが、
その後「アルプスの若大将」(’66)あたりからは、睡魔に襲われることが多かった。

主人公の”若大将”こと田沼雄一が歌う、洋楽のカバーはとてもかっこよかった。
影響されたミュージシャンも少なくないだろう。私が知っているのはジャズギタリストの渡辺香津美とか。
山下達郎のアルバムにも、若大将が映画の中でカバーしていた曲が収録されている。なんて曲だったかな・・・。
俳優・映画監督の竹中直人もかなり影響されていたそうだ。
実は今まで、竹中直人の加山雄三のモノマネを見ても、なんかピンと来なかったのだが、
この<若大将シリーズ>を見て、よーくわかった。

あのモノマネは、名人芸です。そっくりです。


「大学生編」では、「ケンカ」「勘当」「スポーツ」「青大将の尻拭い」「ヒロインとの恋愛成就」で
ほとんどが片付いてしまう。究極のマンネリ映画ともとれるが、私はそこが惹かれる理由である。

「正義感の塊だなぁ、若大将!」
「ギターも歌も上手いなぁ、若大将!」
「スポーツ万能でうらやましいなぁ、若大将!」

それもだんだん飽きてきたのか、ほとんど眠りながら見ていたこともあった。
しかし睡魔が吹き飛んでしまったのが、シリーズ第10弾「南太平洋の若大将」である。

映画の冒頭は、ハワイから始まる。
「あれ?ハワイって北太平洋だぞ・・・」と思っていたら、舞台はタヒチ島へと移る。
ハワイだろうとタヒチだろうと、どこの土地でも若大将はその土地の人たちに好かれる好青年である。
「かっこいいなぁ、若大将!」
かくして映画がタイトルどおりになったあたりで、私はまたウトウトしはじめたのであった。
この映画で若大将は、京南大学・柔道部のキャプテンを務めていた。序盤では練習のシーンもあった。
そしていよいよクライマックス、日本(大学)柔道選手権が始まる。
ハワイロケ、タヒチロケという2箇所の海外ロケに加え、今度はあの日本武道館を借り切っての撮影である。
なんて豪華な映画なのだろうと思った。よっぽど予算があったのだろうか。
監督は、シリーズ第5作「海の若大将」、第7作「アルプスの若大将」でメガホンを取った古澤憲吾監督。
クレージーキャッツの映画の監督としても有名である。相当変わった人だったらしい。

さて、私の眠気が吹っ飛んだのは、その日本武道館のシーンである。
たしか序盤の練習風景では、若大将こと主将・田沼雄一を始め上級生は皆黒帯だった。
しかし、選手権ではなぜかみんな白帯。

「京南大学、○○ ○○。三段」と、選手のアナウンスが流れても、立ち上がる選手は白帯。

おそらく、神聖なる武道館の畳の上で、映画の撮影だとしても素人に黒帯を付けさせるわけにはいかないという
講道館側の判断によるものではないだろうか。

テレビで柔道の試合を世界選手権とかオリンピックとか見慣れているので、映画の中の柔道はお粗末としか言い様がない。
いよいよ大将戦が始まった。主将・若大将に対するは、得意の押さえ込みで無敵を誇る海外からの留学生(だったかな?)。
やはり相手の押さえ込みで絶体絶命のピンチに陥る若大将・・・!

しかし試合終了一秒前で「待て」がかかり、両者立ち上がるやお互いに歩み寄り、
「ボテっ・・・」といった感じの、決して鮮やかとは言い難い、しょぼすぎる投げ技が決まる。

- 若 大 将  大 逆 転 勝 利 -

終盤のクライマックスが、迫力も何も感じられないシーンに終わり、寝ている妻の横で私は腹を抱えながら笑った。
もちろん声を上げるわけにはいかないので、笑い声をこらえるのがとても辛かった。

<若大将シリーズ>の中で、おすすめの作品は?と聞かれたら、私はまず一番にこの作品を上げるだろう。


次回は社会人編について。








昼休み

2012年11月21日 12時47分25秒 | Weblog
携帯電話からブログを更新してみようと思ったが、書きたいことがありすぎて、5000字ではとても収まらない。

旅行疲れで、次男は高熱出すわ、長男の具合も怪しい。妻は顔の湿疹、私は日中の睡魔と毎日格闘中である。

旅行の後、こんなことになるのは百も承知しているのだが、やっぱり「家族でお出かけ」はやめられない。

こんどはいつになることやら。

二次会 第一部(その1)

2012年11月18日 23時51分17秒 | Weblog
平成24年9月29日

某会とカラオケ・・・
その起源については、前回述べたとおりである。

もう少し解説しようと思う。

卒業式後のカラオケが終わり、地元出身でかつ地元に就職したHKくん以外とはもう二度と会うことはないだろうと思っていた。
HKくんとは、またいつでも会えるような気がしていた。二人でライブを見に行ったり、札幌や旭川の街中をブラブラしたり、
学生時代の関係が、長く続くことはおそらく間違いないだろうと確信めいたものが私の中にはあった。

それから3ヶ月後、札幌の実家で公務員試験に向けて受験生生活を送っていた私に、一本のカセットテープが届いた。
宛名書きの字体を見てすぐHKくんからの物だとわかった。
テープはラジオ番組風に始まった。DJは、NくんとHKくん。
「卒業後も二人の親交は続いていたのか・・・」と、ちょっとうらやましかった。
オープニングらしきものが終わり、最初のコーナーのBGMは、「マクロス」だった。

「あの『マクロス』は、すごかった」

<あの「マクロス」>とは、私が前述のカラオケで歌った曲のことである。
二人に絶賛されて、気分が良くないわけがない。
私の鼻はどこまでも伸び続け、まさに有頂天。天にも登ってしまいそうな勢いであった。
そして次のコーナーで、私は驚愕の事実を知った。

HKくんの奏でるキーボードの悲しげなメロディが流れる。
二人は就職してからわずか3ヶ月後、揃って仕事を辞めていた。
「なんだ、結局3人とも無職かw」
学生時代の暮らしぶりから”自由人”といった感じのNくんの退職はなんとなく想像できたが、
堅実な人生を送るであろうと予想していたHKくんの退職には、本当に驚いた。

「こっちへおいで~」「こっちへおいで~」

仕事を辞めた二人は、これから試験が始まろうとしている私に、悪魔のようなメッセージを送ってきた。
おかしくておかしくて、腹がよじれそうになった。
おそらく、その後は打ち合わせをしていなかったのか、グダグダな内容で番組は終了。

それからまもなく始まった公務員試験で、私は5箇所受けた試験のうち、最後の試験でようやく合格し、
まだ赴任地は確定していなかったが、晴れて社会人生活がスタートすることは決まった。
試験がひと段落した1997年9月、テープのお礼と無職の二人を冷やかしに旭川へと向かった。
大学卒業から半年後、こうしてHKくん、Nくんと再会。

詳細を聞くとまずNくんは、採用された会社をなんと一週間で辞めたとのことだった。
土日をはさんだので、勤務日数は実質数日。
後年、「なんであの時やめたの?」という問いに対し、この時のことを彼はこう振り返る。










「俺の居場所じゃねぇ」


職場に行ってみて、直感的にそう思ったのだろう。
そう感じたら、すぐ行動に移す・・・私だったら、もしそうなってもズルズルひきずってしまうことだろう。
そうやって、思い立ったらすぐ行動できる人がちょっとうらやましい。
しかし、退職後パチンコで生計を立てていた彼の生活は荒んでいた。
2Kのアパートに住んでいた彼の棲家は、窓側の広い部屋が自転車置き場とゴミ置き場になっており、
もうひとつの部屋には、テレビとセンベイ布団とゲーム機だけしかなかった。
そして、彼の表情からして元気がない。聞くところによると、HKくんと毎晩のように騒いでいたら、
隣人とトラブルになったらしい。しかし、彼は冗談めかしてもHKくんを攻めたりはしない。
「そうだよ~、あの時HKくんが俺のトコきて、毎晩騒ぐからあんなことに・・・」
なんて言葉を、彼から聞いたことは今まで一度たりともない。
2年前にその話になったとき、彼は「今思うと、あの時は欝(状態)だったかもな・・・」とつぶやいていた。

そんな彼とは対称的に、HKくんは学生時代と何一つ変わらず眼をギラギラさせていた。
地元の税理士事務所に就職して間もなく彼は、次期後継者として鍛え上げられようとしていたそうだ。
入社早々、将来税理士事務所を背負って立たなければならないという重責を課せられ、
彼は悩みに悩んだ挙句、家族会議まで開いて退職を決意したのだった。
後年、彼はこの頃の心境ををブログでこう記していた。










「心が完全に折れてしまった」

あの時の眼のギラギラ感は、過酷な状況から解放され生気を取り戻した”アフター欝”の輝きだったのだ。

そんな二人を目の当たりにして、私は混乱してしまった。
公務員になりたくてなったわけではない。試験にたまたま受かったから”公務員になってしまった”だけで、
将来のビジョンも何もない。「公僕」になるなんて、自分にはムリだ。
いわゆる「税金ドロボウ」の道へまっしぐらだった。

Nくんのアパートで雑魚寝しながら、「オレたち、結婚なんてできねえだろうなぁ・・・」と私はボソっと吐き捨てた。
このセリフは、荒んだ生活を送っているNくんへ、こんなところで生き生きと目を輝かせているHKくんへ、
そしてなにより、受験勉強に慣れているからという理由だけで、予備校に通い試験を受け、人様の税金を食い物にして
これから数十年生きていこうしている自分に対してのものであった。

話は大幅に脱線してしまったが、このあとまた半年後に3人で集まり、旭川の街中を徘徊する。
学生時代は、ボーリング、ビリヤード、ゲームセンターが我々の定番コースであったのだが、
卒業後はこれに<カラオケ>が加わることとなった。
さらにその翌年、前年と同じ日(5月3日)に集まったことから、この3人による会の名称を、【ゴ(5)ミ(3)の会】と定めた。
その後、2004年11月の活動休止までの間、毎年北海道内のどこかに集まっては、
ほんのひと時ではあったが、学生時代を彷彿とさせるダラダラとした時間を3人で過ごしていた。
最初の頃は、カラオケ初心者のHKくんに配慮して、「最初は深夜0時までは普通のカラオケにしよう」というルールを決めて、
深夜0時以降、私とNくんが、アニメソングで歌合戦さながらのバトルを繰り広げるという構図であったのだが、
2002年の第6回大会から、アニソンだけのカラオケとなり、どういうわけか、より競技性が高まってきた。
卒業式後のあの日、私の一撃で辛酸を舐めたNくんは、その自由奔放な存在感とスナック・プラネットで培われた(?)歌唱力で
私とHKくんを圧倒する存在となっていた。
ゲーム音楽、フュージョンといったインスト音楽至上主義のHKくんは、カラオケに関しては全くの初心者であったが、
並々ならぬ努力の末、レパートリー(持ちネタ)の数は、某会随一となった。
Iくんは、2003年8月の第7回大会から参戦。Sくんは活動再開後の第12回大会から参戦している。


というわけで、今回もカラオケ大会がスタート。

一曲目。私は発声練習のつもりで、Eテレ(NHK教育)・「いないいないばぁ!」より「スーパーワンのうた」、
引き続きNくんは、「スマイルプリキュア!」オープニングテーマ(以下OP)・「Let's go!スマイルプリキュア!」。
HKくんは、「宇宙刑事ギャバン」OP・「宇宙刑事ギャバン」をそれぞれ選曲。

私はJOYSOUNDのりれきを見るたびに、背筋がゾクゾクしてしまう。
なぜならこの3曲が、中盤~後半~決着に至るまでの伏線となっているからである。

「じゃあ、今日はオレこんなカンジでいこうかな」「そう来るなら、じゃあオレはこれで」
とかいう事前の打ち合わせも、その場でのあからさまな駆け引きも何もない。お互い手の内を知っているわけでもない。
それぞれが、ただ歌いたい曲を歌っているだけなのである。

それなのに、毎回毎回このカラオケ大会は、気がつけば筋書きのないドラマが始まっており、劇的なフィナーレを迎えるのである。
だからやめられないのだ、このカラオケ大会は。さて、今回は・・・。

つづく

正しい点眼薬の使い方

2012年11月17日 21時47分48秒 | Weblog
眼科を受診したことのある人なら誰でも経験があると思うが、
眼球にプシュッと空気をあてる検査のことを眼圧測定という。
わずか1分くらいで済む検査だが、私にとってはこれが自分の運命を左右する重大な検査である。

正常眼圧緑内障と診断され、点眼薬による治療を開始してから2週間。
先日の検査では、めでたく眼圧が下がり始めていることがわかった。
この調子で眼圧が下がっていけば、症状の進行は最低限に抑えることができる。


緑内障とは、何らかの原因で視神経に障害が発生し、視野が狭くなっていく病気で、
眼圧の上昇がその病因の一つとされる。
眼圧とは、簡単に言うと眼球の硬さのことで、眼圧の上昇によって視神経が圧迫され
圧迫された視神経は萎縮していくんだったかな・・・?
そんでもって一度損傷を受けた視神経は復元されないため、放置すれば徐々に視野が狭くなり、
最後には失明に至る病気、それが緑内障である。

私の場合、眼圧がヒトの正常範囲(10~21mmhg)であるにもかかわらず、緑内障を発症してしまった。
だから<正常眼圧緑内障>という病名なのである。
医師の話によれば、眼圧には個人差があり、血圧と一緒で高血圧や低血圧でもピンピンしている人も
いれば、多少の血圧の変動で体調不良を訴える人がいるように、私の場合は正常範囲内の眼圧で
あっても、視神経に損傷を与えてしまうようになってしまったようだ、とのことだった。
また、眼圧は一日のあいだに変化することもあり、普段の眼圧が19mmhgである私は、
時間帯によって正常範囲を超えている可能性もある。

小学2年生からメガネをかけるようになって以来、20代前半まで視力は低下していった。
したがって、強度のメガネ・コンタクトレンズを手放せなくなり、目にはかなりの負担がかかって
いたのだと思う。視神経は人一倍弱っていたから、眼圧値は正常でも病気を発症してしまったのでは
ないだろうか。これは、私個人の素人診断である。
次回の診療は、緑内障の専門医に診てもらえるそうなので、詳しく聞いてみたいと思う。


とにかくまずは眼圧を下げなければいけないので、点眼による治療が始まった。
治療といっても、一日一回寝る前に目薬をさすだけである。

緑内障の進行を抑える点眼薬だけでなく、すべての目薬の使い方に共通することなのだが、
目薬をジョボジョボッと数滴たらし、目をパチパチっとさせて薬を眼球になじませようとするのは、
全くの間違いである。
正しい使用方法は、点眼は一滴で十分で、目をパチパチっとさせるのではなく、
点眼後、目を数分とじるのが、薬を浸透させる最良の方法ということだ。
目頭を抑えるのも良いそうだ。それは目頭のあたりに涙腺があるため、涙を抑えることにより
薬が涙で流れてしまうのを防ぐ効果があるそうなのだ。
立ったまま、寝ながらの目薬も良くないことが最近わかった。座って上を向いた状態で目をつぶるのが
涙が一番こぼれずらい。私の治療時間はこれを毎晩5分。ようやく慣れてきた。

病気になると、今までのこと、現在、これからのことが全然違って見えてくるような気がしてきた。
幸い先日の検査の結果は、とても喜ばしいものだった。
このブログも、「家族のこと」「趣味のこと」そして「闘病のこと」とバリエーションが広がってきた。