猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

マット・デイモンの出世作、映画『グッド・ウィル・ハンティング』

2020-06-15 00:03:09 | 映画のなかの思想
 
ひさしぶりに、妻とアメリカ映画『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』(1997年)をテレビで見た。今回見て、気づいたのは、Will Huntingの役を演じたマット・デイモンの初々しさである。マットの少年のような笑顔がかわいい。昔なかった感情である。私が年老いたのであろう。
 
映画は、子ども時代の虐待で、世の中に対して心を閉ざし、喧嘩ばっかりしている青年 Will Huntingが、彼の天才的能力に気づいた周りの人たちの働きかけで心を開き、女友達 Skylarを追って、ぼろ車でカリフォルニアに旅たつ、という物語である。
 
マットはこの映画で一躍スターになった。マットは1970年生まれであるから、この映画を撮影していたとき、26歳である。また、この映画の脚本を最初に書いたのはマットと友人のベン・アレックである。脚本を自ら書いて、マットとベンは、その映画化と自分の出演をあちこちに売り込んだのである。結局、新興の配給会社 MIRAMAXが映画化権を買った。そして、製作費千万ドルの映画が、北米で1億4千万ドル、全世界で2億2千万ドルの興行収入を上げる大ヒットになった。
 
マットとベンは、同じ東海岸の町ケンブリッジで育った遊び友達で、高校で演劇の授業をともに選択している。映画では、ベンがマットの兄貴分を演じているが、実際には、マットがベンの2歳上である。最初の脚本は、1992年にマットがハーバード大学の脚本の授業で与えられた課題製作である。課題は一人芝居の脚本であったが、マットは心を閉ざした天才少年の映画の脚本を書いた。この後、ハーバード大学を中退し、ロサンゼルスのベンのもとに行き、一緒に脚本を書きなおす。完成したのが1995年である。
 
マットもベンも、まだ演技が下手である。しかし、その素人臭さが、かえって初々しい。周りのわき役、精神分析医役のロビン・ウィリアムズ、MITの数学教授役のステラン・スカルスガルド、Skyler 役のミニー・ドライヴァーがみんな上手なので、マットとベンが素人臭くても、映画のリアリティは失われない。
 
マットの初期脚本で、最後まで残ったのは、Willと精神分析医の最初の出会いの場面であるという。精神分析医の死んだ妻に対する想いをWillがわからず、からかったことで、精神分析医が怒りを爆発するシーンである。
 
私も、NPOでの経験から、心を閉ざしている反抗的相手に対して、教育的配慮という上から対応より、ときに、生の感情を見せる対等な人間関係が良いと思う。
 
脚本で大きく変わった点は、Willがその天才性を発揮する分野を、物理学から数学に変えたことである。マットとベンは、ハーバード大学のノーベル物理学賞の教授に先端物理学の話しを聞きに行った。そのとき、物理学は個人的天才よりチームワークに移っているから、分野は数学にすべきだ、とその物理学教授は忠告し、義弟の数学教授を紹介した。マットとベンは、数学教授と彼の助手の話しを聞き、映画の脚本を変えた。
 
MIT大学の清掃人(janitor)をしていたWillの才能に最初に気づく教授を、フィールズ賞受賞の数学者にしている。フィールズ賞は数学の最も権威ある賞で、4年に1度、画期的研究をした40歳以下の数学者を選ぶ。
 
ところが、映画では、町の酒場の誰ひとり、そのMIT数学教授の名前を聞いても、フィールズ賞のことを聞いても、なんのことかわからない。ところが、セオドア・カジンスキーの名を言うと、酒場のみんながその名前を知っている。カジンスキーは、貧しい移民の子で、25歳で数学の助教授になり、2年後にその職を突然やめ、山に引きこもり、自然を破壊する現代社会への怒りから、爆破犯になった天才数学者である。
 
世の中の人びとは、数学の才能に関心がないのだ。テロリストにならなければ、どうでもいいのだ。
 
また、MITの数学教授は、自分とWillの関係をゴッドフレイ・ハーディとシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの関係になぞらえる。ハーディはイギリスのケンブリッジ大学の数学の教授で、インドの無名のラマヌジャンの才能を見つけ、イギリスに呼び、一緒に数学の研究をした。ラマヌジャンは正規の数学の教育を受けていない伝説の天才数学者である。イギリスの風土が合わず病死している。
 
解体作業現場で働く兄貴分(ベン)は、Will(マット)が恵まれた才能を無駄にせず、社会的地位の向上を願うが、映画の最後のシーンでは、Willが女を追ってカリフォルニアにぼろ車で旅たつのである。これを「才能の開花よりも愛を選んだ」と見るか、「愛も才能の開花も選んだ」と見るか、この終わり方の意味が私にはわからない。
 
英語の解説を読むと、the story of a brilliant underachieverとか、Willのことをa brilliant but pugnacious slackerと書いている。underachieverとは成功しなかった者のことであり、slackerとはクズ野郎とか非国民という意味である。すると、この映画は東海岸の「敗者たち」すなわち「普通の人々」のための映画であることが間違いなく、Willが西海岸に脱出することで、もしかしたら、アメリカン・ドリームが実現するかもしれないという、希望をその「普通の人々」に残したものと思う。