猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』、抑制された癇癪もちの人びと

2020-06-18 22:40:40 | こころ


妻がむかし買ったカズオ・イシグロの『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫)をようやく読み終えた。読後感が悪くない。

しかし、読むには苦労した。何度か読み返した。読むには一時的な記憶力が必要なのに気づいた。一時的記憶力が衰えたので、一字一字読んでいくのではなく、数行同時に目で追い、行きつ戻りつして読んだ。ページを越えて行きつ戻りつした。

『遠い山なみの光』の原題は “A Pale View of Hills”である。「遠い山なみ」というと、日本海側に育った私は、遠くにそびえる、白い山なみを思いうかべる。山なみが見えるということは 天気が晴れである。どんよりした冬が終わり、春に白い山なみが見えると、なにか心おどったものだ。

しかし、原題は “hills”である。 “hills”はゆるやかな起伏の草原である。ロンドンの郊外に広がるのも緑のゆるやかな起伏である。“a pale view”とはなんだろう。“view”とは、目の前の広がる景色をいう。“pale”とは何だろう。明るい光があたった「起伏」ではなく、何か、どんよりとした天気のもとの「起伏」ではないか。

この “hills”は、ロンドン郊外、すなわち、グレートブリテン島のゆるやかな起伏だろうか、長崎近郊の起伏であろうか。長崎では、どんな景色が目の前に広がるのだろうか。

『遠い山なみの光』は、ロンドン近郊の田舎にいて、娘に自殺された主人公 Etsukoが、その娘を身ごもっていた 長崎での日々の人間たちを思い出すという、物語である。そこに出てくる人がみな日本人であるのに、日本人のように思えない。違和感がある。

「緒方さん」というEtsukoの義父が、長崎の思い出にでてくる。私は「緒方さん」という言い方にも違和感をもった。

じつは、私のうまれた家庭では、家族の誰かを呼ぶのに、名前(a given name)のあとに「さん」をつける。たとえ、「義父」であろうとも、母は「さん」をつけて呼んでいた。私も中学から「ちゃん」から「さん」に昇格した。

ところが「緒方さん」という言い方は「名字」(family name) に「さん」をつける。私ははじめ “Mr. Ogata”をそう訳したのかと思った。「緒方さん」は 元校長である。だから、「緒方先生」と言う意味で “Mr. Ogata”と言ったのか、と思った。原文では、“Ogata-san”である。なぜ、Etsukoは思い出すにあたって “Ogata-san”となるのであろうか。

Ogata-sanは、Etsukoからみて、適切な距離をもって接してくれる人だったからか。それとも、カズオ・イシグロは教養ある日本人は、そういう言い方をすると、思いこんでいたからだろうか。

思い出の日本人は、いずれも、自己主張がつよい。人の話を聞かずに、自分の思いだけを人にぶつける。しかし、自分を抑制しており、直接的な殴り合いにならない。抑制して、一線を越えないので、読後感が悪くない。

登場人物の多くは「癇癪もち」として Etsukoに思い出される。「癇癪もち」とは英語ではなんというのだろうか。いまは、「癇癪もち」という言葉を、私はすっかり聞かなくなった。

しかし、子どものとき 聞いたような気もする。そうだ、私も「癇癪もち」と言われたような気がする。私は自己抑制が利かないタイプであった。いつも、全世界を相手にして喧嘩する気持ちでいた。なぜ、自分を殺さないといけないのか、と思っていた。

「癇癪もち」というのは「自己中心」とは異なる。「癇癪もち」とは、対人関係に関するもので、社会的スキルをもつことによって、「癇癪」を起こさないで済むようになる。「自己中心」であることはけっして悪いことではない。自分を抑制するのも、社会的スキルである。

自殺した娘 Keikoも癇癪もちである。Etsukoは商社マンの日本人Jiroと別れ、イギリス人と再婚する。新しい家族に溶け込めなかったKeikoは自分の部屋に閉じこもる。家族といっしょに食事をしない。会話をしない。部屋の中に汚れた下着が散らかる。日本の引きこもりとまったく同じである。自分が無視される。自分の言い分が聞いてもらえない。癇癪を起すしかない。そんな自分を曝け出さないためには引きこもるしかない。

Keikoは自分の部屋から飛び出し、マンチェスターに行き、一人で生活する。とても不安であっただろう。行動を起こした結果、首つり自殺をした。大家が家賃を払わずに逃げたのではと思って見にくるまで、数日ぶら下がっていたとある。眼をむいていただろう。糞尿をたれ流していただろう。

長崎の思い出は、SachikoとMarikoの母娘である。母Sachikoは、自己を抑えて死んだように生きるのではなく、恋をして自由に生きたいのだ。Marikoは邪魔なのだ。だが、捨てられない。いつもイライラしている。Marikoも自分がだいじにされたいのだ。

思い出は、Marikoが拾ってきた子猫たちを、Sachikoが籠に詰め、川で殺すことで、終わる。愛人のいる神戸に行くことに逆らうMarikoを殺したいほど憎い。しかし、殺せないので、娘Marikoの愛する子猫たちを母Sachikoは殺す。これも自制であり、癇癪である。

なにひとつ解決していない。カズオ・イシグロは、解決しないことを受け入れ、自己抑制しかないと言っているのだろうか。

じつは 私たちが いま 教えている社会的スキルは、自己抑制ではなく、他人に受け入れられる自己主張(assertion)のテクニックである。

小説の日本人は、私の見てきた日本人ではない。とてもステレオタイプ的な日本人である。イギリス人であるカズオ・イシグロが頭の中でつくり上げた良家の日本人、教養ある日本人である。

理解しがたい点を確認するため、きょう、図書館に英語の原本を予約した。

[追記]
6月21日、“A Pale View of Hills”が図書館に届いた。早速、読んでみると、「癇癪もち」は “have fierce tempers”であった。「駄々っ子」というニュアンスのある「癇癪もち」よりも、「気性の激しい」という“fierce temper”のほうがよい。べつに、その気性を責めてはいないのだ。気性の激しい女も、それはそれで、魅力的なものだ。