猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思の『死生観の郷愁』は政府のコロナ対策の擁護

2020-06-27 22:48:48 | 新型コロナウイルス
 
保守の論客、佐伯啓思が、6月27日、ふたたび、朝日新聞に新型コロナ騒ぎを論じていた。3月31日の寄稿では、今日の新型コロナ騒ぎは「少し突き放して」みると、「見事に現代文明の脆弱(ぜいじゃく)さをあらわにして」いる、と論じていた。
 
今回のタイトルは『死生観への郷愁』である。副題は『「無常」が昔は根本に 今では国家に丸投げ私権制限さえ構わず』である。誰がこの副題をつけたのだろうか。こういう新聞の見出しは、本人でない可能性がある。
 
今回の佐伯の寄稿から、いくつかの文を切り出してみる。
 
〈人は神を祀り、鎮魂の祭りを執り行い、大仏や薬師如来を造り、また弥陀の本願にあずかるべく一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪う時、人は、この不条理を「世の定め」として受け入れるほかなかった。〉
〈この世の不条理な定めを、昔の人は「無常」といった。〉
〈それらは、とうてい受け入れがたい不条理な死を受け止めて、死という必然の方から逆に生を映しだそうとした。〉
 
佐伯は、昔から人はさまざまな思いをいだいて、生き、そして、死ぬという事実を無視している。単に、自分の思いを「昔の人」に託して、「死生観の郷愁」をしているだけである。
 
佐藤弘夫は『偽書の精神史』で、親鸞が弟子の唯円の現世への執着心を肯定し、日蓮が現世ご利益をとなえ幕府を攻撃したことを書いている。「極楽浄土」を願って死に急いだのは一部の学僧(当時のインテリ)だけである。人間は、世の中が不条理だといっても、進んで死ぬわけにいかないのである。支配層を叩き殺せとなるのが普通である。
 
佐伯はつづけて書く。
 
〈常に死と隣り合わせの生をおくった武士にとって、「諸行無常」が生死の覚悟の種になったことも事実であろう。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。〉
 
死の恐怖のなかで、緊張感に満ちた生を生きるというのは、一種の強迫症ではないか。
 
中世史家の本郷和人は、講義で、庭に生首を置いて酒を飲む武士の話しをしていた。彼らは死の恐怖がないと強がっているのである。そのために、意味もなく、通りすがりの人を殺す。
 
私は、死を意識せずに、日々の生を楽しむので十分だ、と思う。生きる喜びは、なにげない日常に、なにげない人間関係にある、と思う。

佐伯は、このように大上段に構え、一方的に持論を展開した後、突然、つぎのように書く。
 
〈国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。〉
 
そして、世論もメディアも野党さえも、国家権力の発動を訴えていたと書き、つぎのようにいう。
 
〈強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。〉
 
これは事実に反する。歴史の書き換えである。「世論」とは何か意味不明であるが、メディアの立場は左右に分かれた。野党も自民党も党内で意見が分かれたが、野党の多数派は政府の強権的行動に反対した。年老いた佐伯は自分の都合のよいように世のなかが見えるようだ。
 
さて、佐伯が『死生観』を持ち出した理由がこの後、明らかになってくる。
 
新型コロナでみんなパニックって、つぎの事実を忘れているというのである。
 
〈国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。〉
 
佐伯は、これが言いたいばかりに、大上段に構えて、新型コロナは たいしたことがないとか、昔の人の『死生観』が懐かしいとか、ほざいているのである。
 
「国家」となにか。民主主義では「国家」は解体の対象である。ホッブズがいうように、デモクラシーでは主権は人民(デーモス)にあるのである。民主主義の社会では、国家に代わって、行政サービス機関があるだけである。行政サービス機関に、よりよい「新型コロナ対策」を求めるのは当然のことである。しかも、行政サービス機関が強権を発動しなくても、新型コロナ対策ができるのである。