伊藤正敏は、『アジールと国家』(筑摩選書)で、「末法思想」を説明するために、偽書『末法燈明記』を取り上げた。そこで、彼は、「佐藤弘夫の『偽書の精神史』(講談社選書メチエ)を参考に私の解釈を加えながらその内容を検討してみよう」と書いていた。
しかし、伊藤のまとめは、何年か前に『偽書の精神史』を読んだときの私の印象と大きく異なっていた。さっそく図書館に『偽書の精神史』を予約した。それが きょう 届き、読んでみると、やはり、伊藤と佐藤のまとめは大きく異なっている。
仏教が古代日本に入ってきたとき、当時の支配者にとって、仏教はキラキラの先進国文化であり、吸収すべき「学問」であり「儀礼」であった。仏教が普及して「宗教」に変化したのが、平安末期から鎌倉期とするのが、佐藤の考え方である。
伊藤は「政治体制」という文脈で、『末法燈明記』を読み解いており、佐藤は仏教が「宗教」に転換する時点での偽書の1つとして読んでいて、受け取り方が異なるのはあたりまえだ。
佐藤は、『末法燈明記』を「僧官を設けて戒律を守らない僧侶を統制しようとする国家の姿勢」への厳しい批判と読み解く。末法は「仏の教えがすたれ、人々を救う力を失う時代」で、戒律も効力を失い、「無戒」の時代には、「破戒僧」も無条件に尊重されなければならない、と『末法燈明記』を読む。
「戒律」とは「国家による統制手段」であり、いまでいう「司法試験」とか「医師国家試験」とかみたいなものである。
佐藤は、「末法思想」より「本覚思想」を、仏教から「宗教」への転換のキーと捉える。いっぽう、「学問」としての仏教は、鎌倉新仏教の出現にもかかわらず、政治勢力として残り、「中世の思想状況は、神仏冥道が錯綜し雑多な信仰が交渉しあう、より混沌としたものである」と捉える。
中世は古代国家の崩壊であるから、仏教界の「混沌」は当然であろう。
「本覚思想」とは、人間も牛や馬もそのままで「仏」になれる、だから「荒行」も「学問」もいらないという考えである。高校の同級生に禅寺の息子がいて、「仏」が何かということを議論したが、まさに、彼は、そのことを語っていた。これは、浄土真宗にも日蓮宗にも通じる考えである。
「仏」になるとは、動揺しない「心」、自分を肯定する「心」を持つことだ。
佐藤はただ「仏」になる手段が宗派によって異なるのだ、という。「禅宗」では、自分を瞑想によってとらえることで、「浄土宗」や「真宗」では、ひたすら「念仏」を唱えることで、「日蓮宗」では「題目」を唱えることで、「仏」になれるとする。それにもかかわらず、鎌倉仏教は、とくに、日蓮宗は他宗派にたいして攻撃的であったと、佐藤は言う。
政治体制の立場から唯物史観で、中世の「寺社勢力」を分析する伊藤正敏の議論も面白いが、個人の心のなかにはいって、古代国家の崩壊によって、官製仏教からはみ出し新仏教を唱えだす、その人たちのバイタリティを想像するのは、もっと面白い。
佐藤弘夫の『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』(講談社選書メチエ)はおすすめである。