猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

朝日新聞の「動物への愛情って?」に異論あり

2020-06-02 22:44:00 | こころ


きょうの朝日新聞《耕論》『動物への愛情って?』の人選は失敗だったのではないか。

論者は、野生動物の社会行動の研究者の徳山奈帆子、害獣(鹿のこと)駆除とその肉の販売業の本川哲与、小動物を実験に使う神経学者の渡辺茂の3人である。

獣医とか動物保護センターの人たちも選んで、かみ合う議論がなされる配慮が必要だったと思う。

徳山は、「『かわいい』は人間勝手な気持ちです。動物を本当に愛するということは、人間本位の愛情を押しつけないこと」と言う。「動物を本当に愛する」ことが何かを、他人にお説教することも、「押しつけ」ではないか。野生動物の社会行動の研究からくるものは、野生動物が独自に持っている文化の発見であり、彼らの社会への尊敬ではないか。それと、人間と動物がすでに親密に共存しているペットの話しとは、別ではないか。

本川は、「『かわいい』とめでているだけでは、野生動物とは共存できない」とし、「だからこそ、私は奪った命は、無駄にしない。そんな『贖罪』という愛情を持って鹿と向き合います。人間だけで食べきれない鹿肉は犬や猫にも手伝ってもらい、粗末にしません」と言う。「『贖罪』という愛情」とは意味不明で、「贖罪」という怪しげな言葉は使わないでもらいたい。「犬や猫にも手伝ってもらい」の意味は、鹿の肉をペットフードにして、売っているという意味である。

渡辺は、「人間の『心』から動物の『心』も類推できる」を「擬人主義」と呼び、「動物とも『心』でわかりあえると思い込む擬人主義は、『心』の違いをきちんと認識する理性を、情動で曇らせてしまう」と言う。

彼が「心」と呼んでいるものは、脳の機能の一部である。

哺乳類の脳の構造は類似している。したがって、脳科学では、気分障害の1つである「うつ」の研究に、マウスを使っている。マウスが人間と同じ「心」をもっており、いっぽうで、マウスを痛みつけても殺しても、法で罰せられないことを、研究者たちは利用している。

私は、マウスやネコやイヌやサルについていえる脳の機能は、人間にもいえると思っている。そして、動物によっては、人間と同じような心の動きをする。

私は、子どものときにいろいろな動物を育てた。蝶々やカエルを卵から育てた。金魚やひよこやネコやイヌも育てた。

確かに「かわいい」というのは人間の一方的な思いである。昔、私の会社の同僚は、飼っている亀が自分のことをどう思っているのか、えさを与える機械と思っているのか、と私に不満を言った。

しかし、一方的に「かわいい」と思って世話をする人間の心の働きは、それはそれでいいのではないか。人間の赤ん坊はまったく無力である。人間に「かわいい」という思い込みの機能があるからこそ、赤ん坊は育つのではないか。

また、私の会社の別の同僚が、赤ん坊は泣いてうるさいし、おしっこやウンチをたれ流していると、怒っていた。私は、とても、びっくりした。「かわいい」という思い込みがかけているのではないか。

子どもの私は、よく、お祭りに夜店でひよこを買ってきて育てた。鶏のひよこは、うまれてすぐ、男と女の判別がされ、男は殺されて畑の肥やしになる。昔は、男のひよこを夜店で売っていたものだ。

最初に買ったひよこは育たずに、すぐ死んだ。泣きながら、じめじめしていた自分の家の小さな庭に埋めた。

次に買ったひよこは、無事育って大人になった。ある日、学校から帰ってくると、大人になったひよこは、首がちょん切られ、天井からつるされて、血ぬきがされていた。その日、みんなでその肉を食べた。

その次に買ったひよこも、元気にそだって大人になった。今度は、血抜きの現場を見ることがなかった。お肉屋さんで、首を切ってもらったと母が言った。みんなでその肉を食べた。

その次に買ったひよこも、元気にそだって立派な大人になった。母は、今度は、お肉屋で にわとりの肉に交換してもらってきて、みんなで食べた。

そして、それを最後に私はひよこを夜店で買って育てるのをやめた。

妻にその話をすると、私の家族は心が壊れていると、怒るのだが、私はどう自分の心を処理したか、覚えていない。ただ、母は、そういうとき、私を「心が優しいのね」と慰めたことだけは覚えている。

私が、東京の大学に進学し、ひさしぶりに帰省したら、中学から高校にかけて私がかわいがった猫は、家からいなくなっていた。母に聞くと、猫が年をとったから、大学病院に実験動物として寄付したのだ、と言った。

母は、動物を飼うよりも人間の子を引き取って育てる方がだいじだと、いつも私に言いはった。しかし、母が里親になったことは一度もない。

父の妹の子が、家が貧しくて、高校に進学できないのは、かわいそうだと祖父は思って引き取った。しかし、母は義父である祖父が嫌いだった。その子は、居づらくて、東京に逃げ帰った。

母が年老いてから、私に語ったのは、母は動物が嫌いだ、怖いからであるという。生き物は、すべて、自分の意志をもっている。それが怖いのである。

母は父とちがって愛想がよい。世間話して、要領よく、生き抜いてきた。しかし、動物が怖いということは、人つきあいを 作為として していただけである。

人間もその他の哺乳類も脳の機能として大差がない。

渡辺は、ナチス・ドイツが「1933年に動物保護法を制定し、動物を人間まで引き上げて尊重するように命じ、生体解剖の禁止や動物実験の制限を決めました」と例をあげ、動物を人間と同じようにみなすことを非難する。

これは、オウム教の尊師が蚊も殺さぬとの逸話と同じで、動物を人間のように大事にする者は、人間を動物のように軽く考え、逆らう人間には残酷な仕打ちをすると渡辺が言いたいのだと思う。しかし、これも極論であり、相手が人間ではないなら何をやっても良いとは言えない。

とても、皮肉なことだが、きょうの《耕論》の最下段に「ペットの飼育環境を改善するための改正動物愛護法が(6月)1日、施行されました」という断り書きがある。

動物に人間へのような愛情をもつことは、人間の脳の働きとして、けっして悪いことではない。それと同じように、人間にたいしても愛情を持てば良いだけである。