伊藤亜紗の『どもる体』に続いて、中村かれんの『クレイジー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ』を読む。同じ医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の一つである。
原題は、“A Disability of the Soul”である。『ままならぬ こころ』という気持ちだろうか。日本での本のタイトル『クレイジー・イン・ジャパン』は直接的で軽く、原題のほうが内容にふさわしい。
この本は、統合失調症患者のユートピアの里「べてる」のレポートである。著者の中村は、映像人類学者であり、プロテスタントの日系アメリカ人である。
カタカナで「ベテル」と書くと、旧約聖書に出てくる聖地で、ヘブライ語で「神の居場所」を意味する。ユダ王国の王ヨシヤが聖地をエルサレムに限定したことで、閉じられた聖地の1つである。
ひらかなの「べてる」は、北海道の浦河町にある、退院した患者たちのコミュニティである。
中村は、7年間にわたり、「べてる」のフィールドワークをおこない、元患者が自立して集団で暮らすさまを、アメリカ人として、社会学者として、他者の目から報告している。
元患者の個人ヒストリーやコミュニティ運営理念と実態、町の住人・警察・自治体・道庁・官庁との衝突を含む関わりあいを語る。これらは、まさに、日本社会の凝縮である。
中村は、「終章 べてるを超えて」で、このユートピアの里は存続していけるのか、の問題を提起している。これは、理想を求めるNPOのどこもが、直面する問題である。組織や体制として存続を望むのか、ユートピアとして存続を望むのか、ということである
「べてる」は、上下関係のない元患者たちの自立組織としてユートピアなのだが、自分たちの稼ぎだけではやっていけない。少なくとも、障害年金、生活保護が必要である。コミュニティが、NPOとして運営していこうとすると、さらに、色々な法規制がかかり、書類の提出を役所から求められる。元患者たちには 手の負えない書類であり、事務職員を雇用することが求められる。
社会は、コミュニティの存在を許さず、法の下の施設であることを求める。
そして、いっぽう、ユートピアを求めて新しい患者たちが次々とやってくる。「べてる」創立時のメンバーと意識が当然異なってくる。新しいメンバーは、「べてる」が何をやってくれるかの意識になる。創立時はクリスチャンの信仰をもとにコミュニティがまとまっていたが、創価学会の会員も当然はいってくる。もはや宗教がコミュニティを維持する核にならない。
ユートピアとは、実は、自然発生するものではない。
引っ張っていくリーダーと陰で支えるサポーターが必要である。「べてる」の場合、ソーシャルワーカーの向谷地生良(むかいやち いくよし)がリーダー、精神科医の川村敏明が陰で支えるサポーターである。
しかし、二人とも年老いて死んでいくのだ。だれが、その役割を引き継げるのか。
「べてる」は変質せざるを得ない。
もしかしたら、ユートピアでなくなるかもしれない。
しかし、伝説となることで、「べてる」は新たなユートピアを作る種子となって、風に吹かれて、日本や世界の各地に散らばっていく。
それが、著者、中村かれんの願いかもしれない。