猫じじいのブログ

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父権母権をめぐって、ジークムント・フロイト、河合隼雄、ジョン・ロック

2021-09-01 23:21:05 | こころ

分析心理学の河合隼雄は、『中空構造日本の深層』(中公文庫)のなかで、「母性」「父性」という言葉で、日本人の思考のあり方をしている批判した。しかし、この言葉に男女の性に対する偏見があるように思え、不快である。

河合と似たような記述は、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)のなかにも見受けられる。

フロイトは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)のモーセに偉大な男、理想化された父親像を見る。モーセの十戒のなかに、「神の姿を造形することの禁止」「見ることのできない神を崇拝せよという強制」がある。フロイトはこの掟を、「抽象的と称すべき観念を前にしての感覚的知覚蔑視」「感覚性を超越する精神性の勝利」「心理学的に必然的な結果としての欲動の断念」と捉える。「思考の全能」への信仰と言う。

そして、「母権制の共同体秩序が父権制のそれに取って代わられる」に伴う「掟の転覆」と言う。

フロイトは言う。

《母親から父親へのというこの転換は、また、感覚性に対する精神性の勝利を、つまり文化の進歩というべきものを告げている。というのも、母性というものが感覚による目撃証言によって明示されるのに対して、父性というものは、推論と論理的前提で打ち立てられた仮定的承認だからである。》

フロイトの仮説「感覚性への精神性の勝利」を、「男」「女」と結びつける必要性はないと思う。

現在の脳科学では、脳のなかには外からの刺激を処理する2つの経路、すなわち、素早い反応をするための扁桃体に行く経路と、思考と判断を伴う海馬から大脳に行く経路があり、その扁桃体と大脳の前頭葉は相互に影響しあっていることが、わかっている。そして、この構造は男女共通であるだけでなく、犬猫のような動物でも同じである。「情動」が女特有もの、「思考」が男特有のものというのは、まったくの偏見である。

このような偏見をとり除けば、フロイトの言いたいことは、十戒の「偶像崇拝の禁止」は見えないもの崇拝する精神性の勝利と解釈できることになる。これは、別に、男女が関係しない。フロイトの主張の奇異な点は、これをさらに「心理学的に必然的な結果としての欲動の断念」と発展させることである。フロイトは、人間の社会性を「欲動の断念」と捉えるが、「エディプスコンプレックス」と同じく、私は納得できない。20世紀はじめのドイツの保守的世界観を引きずっているのではないか、と思う。

17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックの「統治論」の第6章が「父権について(Of Paternal Power)」となっている。ロックは、「母権」「父権」を「情動」「思考」と結び付けることがない。彼は「母権」「父権」は、子どもの「保護」に伴う一時的支配権である、と言う。この支配権は「母」も「父」も平等であるとする。「親権」というべきだと言う。子どもが成人すると親権はなくなるとする。成人した子供に、親が影響力を振るうのは、親が財産を所有しており、遺産相続が親の決定事項だからという。子どもが相続のために卑屈になって自由を放棄しなければ良いだけのことである。

じつにイギリス的な考え方である。

ここで、河合の「母性原理」「父性原理」をもう一度引用する。

《母性の原理とは、端的に言えば、すべてのものを平等に包含することで、そこでは個性ということを犠牲にしても、全体の平衡状態の維持に努力が払われるのである。これに対して、父性原理は善悪や、能力の有無などの分割に厳しい規範をもち、それに基づいて個々人を区別し鍛えてゆく機能が強い。》

河合の主張も、「母」「父」と結び付ける必要のない仮説である。そのうえで、「父性原理」の「善悪や、能力の有無などの分割に厳しい規範」「個々人を区別し鍛えてゆく」ということがなぜ良いのか、わからない。彼の言っていることは、「今頃の若い者は」と同じような過去への郷愁からくると感じる。フロイトの「欲動の断念」と同じレベルの非民主主義的社会の肯定を含んでいるように感じる。



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