きょう、参院予算委員会での森ゆうこの質問に対しての総理大臣 菅義偉の答弁をNHKテレビ国会中継で聞いて、思わず、外出の足がとまった。
菅は大臣という職をまったく誤解している。日本は国民主権の国である。代議制民主政の国である。国会議員は国民の代わりにしゃべっているのである。大臣は国民にゆだねられて行政を監督しており、その職務について、国民の代理の議員の質問を受けているのである。
決して、大臣は殿様ではない。総理大臣は王様ではない。国民のしもべである。
ところが、自民党議員たちは、安倍晋三も菅義偉もだが、天下取りの争いをしていると思っている。政権にはいれば、殿様になった、臣下は自分の言うことを聞け、すべての政策は自分が決断したものでないといけない、と思っている。
大臣も政治家であるから、自分の意見をもつことは、悪いことではないし、当然だと思う。聞かれれば自分の意見を述べ、必要と思えば、国民を説得しようとするのが当然である。しかし、自分が決断するという形式にこだわったり、決断した理由をのべなかったりするのは、国民主権、代議制民主政に反する。
きょうの森ゆうこの質問、総務省の大きな許認可権限をどう思うかについて、菅は正面から答えなかった。質問の意図は、許認可権限が大きいために出てくる業者との癒着をどう抑えるのかである。倫理規定を守るということも大事だし、恣意性がある許認可権限を少なくすることも大事である。
ところが、先日、テレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』で、山口真由が、官庁で倫理規定が、事実上、形骸化していると言っていた。
したがって、菅が大きな許認可権限をどう思うかについて答えないので、質問が、かつて菅が政策に反対する官僚の更迭をしたことを武勇伝として自著で自慢していることに飛び火するのは、やむをえない。
ここで、菅は、大臣になったのだから、自分に反対する官僚を更迭するのは当然だという答弁をした。森ゆうこは、その官僚と話し合ったのか、と聞き返した。
トクヴィルがいっているように、デモクラシーとは、あらゆるところで、平等であることだ。昔の殿様でないから、更迭する前にその官僚と話しあったのか、ということである。大臣だからと、自分の権力を見せつけるために、更迭したのではないか、ということである。
菅の答弁を聞くと、総務大臣になったとき、NHK改革を進めるために、担当課長にNHK論説懇で政府の立場を説明させたが、課長が政府の要請を強く訴えなかったと、ある論説懇の参加者から上司の担当局長に連絡があり、それを局長からメモの形で渡された菅は、課長を更迭したらしい。改革とは受信料を下げることで、担当課長が論説懇で説明する前に、菅は大臣室で話し合ったという。
本当に議論をしたのか、指示しただけでないか。自著で自慢話として書くようなことなのか。自分の権力を誇っているだけである。
担当局長も部下の課長を守らなかったのは、情けない。自分の失敗を担当課長の責任にしたのではないか。
組織のなかのデモクラシーが壊れ、みんなが忖度するようになったから、菅の知り合いが経営している東北新社の接待を事務次官や局長が断れなくなったのではないか。まして、コネで東北新社に入社した菅の息子が接待に出てくるのでは、彼らは断れないだろう。
緊急事態宣言を継続かするか否かの、森ゆうこの質問にも、ぎりぎりまで状況をみて「自分が判断する」といっている。菅が判断するか否かは、デモクラシーの観点から重要ではない。判断をいま言えない理由、政府内で判断がわかれている理由を率直に言い、自分ではこうしたいと思っているのでご理解ください、と言えば良い。
すなわち、これも、デモクラシーの社会で、行政を監督している長のあるべき姿を菅がわかっていない例である。指示をしないと弱腰の長だと思われると勘違いしているのではないか。総理大臣は自分の意見を言っていいのだが、いっぽうで、問題点を整理して伝え、みんなの意見をまとめるように務めにないといけない。
これは、日本学術会議会員の任命拒否問題にも通じている。総理大臣の自分が誰かの任命を拒否することが、自分の権力を誇るために、必要だと菅は思っている。拒否されたのは、リベラルな歴史学者、社会学者、政治学者で、べつに、私のような左翼ではない。社会主義者でも共産主義者でもない。自由民主党の総裁が、むきになって、任命拒否するような人たちではない。いまだに拒否の説明ができないのは、たんに権力をみせびらかしたかっただけではないか。
自由民主党にデモクラシーが生きているなら、菅義偉は総理大臣から引き下ろされてもしかたがない。民主政の古代アテネなら、菅はきっと「陶片追放」になっていただろう。
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