おととい(10月22日)の朝日新聞《オピニオン&フォーラム》に、『ハンコは要る?要らない?』で3人が意見を述べていたが、真壁昭夫以外は検討違いのことを言っていた。
すなわち、真壁昭夫だけが、「ハンコ」の本当の問題は、どのように組織の意志が決定されるか、であると言っていた。
「ハンコ」が要る要らないの議論がでてきたのは、コロナ騒ぎのなか、自宅で会社の仕事をするとなったとき、わざわざ会社まで出かけて、ハンコを押さないといけないから、テレワークできない、という話しが新聞に載ったからである。
そして、その話しにのっかって、菅政権が行政改革の柱としてハンコをなくすと言い出したのである。じつは、ハンコがなくなったって、行政改革がなされたわけではない。
では、本当にハンコを押すために会社に出ていく必要があるのだろうか。ハンコを押すためではなく、会社間の注文書や請求書や決裁書類がまだ紙ベースのものがあるからではないだろうか。会社内では、情報はすでにデジタルで管理されているのではないだろうか。実際上の問題はセキュリティで、会社の重要情報は会社の端末でしか、アクセスできないようになっていることはないか。
したがって、ハンコとかなんとか、言う前に、情報の機密を守ったうえで、どう情報を共有するかの問題を解決する必要がある。通信のセキュリティと情報アクセスのパスワード管理の問題である。そして、それは、使いやすさとトレードオフの関係にある。
私のNPOでの仕事では、情報の機密性を保たなければいけない仕事は、利用者の個人情報の保護ぐらいである。利用者の氏名、住所、電話番号、メールアドレスぐらいしか、デジタルでもっている必要がなく、指導履歴などの個人情報は紙ベースのファイル管理で充分である。
会社では、現在、多数の顧客情報や取引会社の情報をもっており、そのデジタル情報の流失が問題になっている。行政府も情報のデジタル化をすすめているので、そこからの個人情報の流失が起きているはずだが、報道がないのは、政府がひた隠ししているからだと思う。
ここまでは、情報システムの話だが、真壁が言うように、日本の組織では意思決定の複雑さがある。日本の企業や官庁に「稟議書」がある。そこで、ハンコが使われる。そこで、必要なハンコの数が、10個から20個に及ぶことがある、と真壁は言う。
私がいた研究所では、この稟議書の仕組みを、ネットを使ってデジタルに行うシステムを20年以上も前に開発し、日本の企業で使ってもらった。しかし、真壁が言うように、「稟議書」というシステムが本当に必要であるか、という問題がある。
組織は人に序列をつける。上の指示を下が実行するというのが序列の本質である。しかし、上が詳細な指示をするほどの現場の知識をもちあわせてはいないし、詳細な指示を出すことは部下をもつメリットを生かせない。したがって、どこまでの判断を上が下にまかすか、権限委譲(empowerment)の範囲を明確に決めていれば良い。権限が移譲された件については、下が決めれば良いのであって、上は監視すればよいのであるから、承認の稟議書を上にあげる必要がない。なお、下の判断が誤ったときのリスク管理は、権利を委譲した上司の責任である。
この監視は、問題によっては、上下の序列のなかでする必要がない。別の部門がチェックするのが良い場合もある。これは、銀行とか保険のようにお金を扱う企業でよく実施されている方法である。地方の支店などで横領などの事件が行われるのは、このダブルチェックのプロセスが省略されているからである。
権限が委譲されていない件は、意志決定権のある職位まで、上がるだけである。下が上に送るのは、判断に必要な情報である。意思決定者は、結果に対して責任を負う。
すなわち、ハンコの問題でなく、各職位に明確な任務(mission)を決められているか、である。組織は役割分担の仕組みでもある。だれが、意思決定するか、不明な事態が生じれば、相談や会議を行えばよい。
日本の職場で、「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」が重視されていると聞いて、私はびっくりする。これって、自立していない人間から職場が構成されていると言っているのではないか。下から、どんどん、「ほうれんそう」が来たら、上は忙しくて困るのではないか。
行政改革の問題は、ハンコの問題でもデジタル化の問題でもなく、組織運営の問題ではないか。もっとも、無政府主義者の私が、組織のあり方を心配する義理はないのだが。
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