猫じじいのブログ

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日本が79年前の12月8日にアメリカに戦争をしかけた理由がわからない

2020-12-06 23:37:29 | 戦争を考える


もうしばらくすると、79年前に日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した12月8日がやってくる。日本は79年前にアメリカと戦争したのだ。

伊藤隆が監修した育鵬社の中学校教科書『新しい日本の歴史』を読んでもなぜアメリカと開戦したのか、わからない。というのは、その年の1941年4月から、日米関係修復の交渉が始まったばかりだ。教科書には、つぎのように書かれている。

交渉の途中の7月26日に、「日本政府は、東南アジア産出の重要物資を確保するために日本陸軍がフランス領インドシナ南部に軍を進めました。
これに対しアメリカは、国内にある日本の資産を差しおさえるとともに石油の対日輸出全面禁止に踏み切り、日米の対立は決定的なものになりました。」

「日米交渉が行きづまる中、軍部では対米開戦も主張されるようになりました。1941年11月、アメリカは、中国やインドシナからの日本軍の無条件撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄などを要求する強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました。
 1941年12月8日、日本海軍はハワイにある真珠湾の米軍基地を攻撃し、アメリカ海軍の艦隊に壊滅的な損害を与えました。」

伊藤隆は「自虐史観」に抗して新しい歴史教科書を作ろうとした人である。その彼が、日本側からアメリカに開戦をしかけ、アメリカ海軍の艦隊を壊滅させたのだから、日本が奇襲攻撃をかけたのは事実としてよい。日本の武士道には奇襲攻撃が昔から多かった。サムライは昔から卑怯者である。

読んでわからないのは、日本が中国との戦争に疲労困憊しているのに、交渉の途中で南方での戦争を拡大したことである。インドシナに戦線を拡大するのは、本当に日本政府が意図したことだったのか、という疑問が起きる。

昭和天皇は、当時、日本は「下剋上」であったという。日本政府も軍部も、若手官僚や若手将校を抑えきれない状態であったのではないか。当時の日本の上層部は、ヴィジョンもなくリーダーシップもとれないぼけナスばかりだったのではないか。

日本が南方に戦線を拡大したことで、アメリカから経済封鎖を受けたが、そのことだけで、アメリカと戦争する必要はない。現在、アメリカがイランや北朝鮮に行っている経済封鎖とくらべ、ゆるいものである。

11月のハル・ノートを最後通告と東条英機が受けとったというが、ここには、満州国のことがはいっていない。すなわち、アメリカは、対ソ連を考え、交渉条件から日本の利権である満州国を外している。当時、満州国と中国とは区別されていた。ハル・ノートは、逆に、泥沼化している中国との戦争から日本が撤退するチャンスを与えたのだ。

また、日本・ドイツ・イタリアの三国同盟は日本にとって何の役にもたっていない。三国同盟を破棄して、第2次世界大戦からの中立国を表明すれば日本にとって良かった。

ハル・ノートは日本にとって「最後通告」ではなく「助け船」であったのだ。

さらに、不思議なのは、満州国樹立にしろ、中国との戦争にしろ、南方の軍事的占領にしろ、陸軍が行ってきたことで、その尻ぬぐいのために、海軍がアメリカと戦争をする理由がない。海軍が奇襲攻撃をしたということは、アメリカと日本の戦力の違いを意識していたはずである。

さらにさらに、1945年8月に日本が全面降伏したとき、軍部も政府も戦争に勝つと思っていなかったと言う。

ところで、このようなことが起きたのは、「日本国民」が戦争を望んでいたからだ、という説がある。

しかし、この「国民」とは誰のことか。「治安維持法」があった日本に、絶対君主制の大日本帝国憲法下の日本に、自由意志の「国民」というものがそもそもあり得たのか。無政府主義者や社会主義者や共産主義者を殺したり、牢に閉じこめたりしている日本には、戦争を止めるだけの力が「国民」にあり得たのだろうか。

国民の政治的不満を政府や軍部の上層部が「尊王攘夷」「富国強兵」に結びつけた結果、勝てないと思っているアメリカと戦争せざるをえないことになり、多数の国民を飢えと死に追い込んだのではないか、と私は思う。

そして、敗戦後、軍部も政府も戦争を望んでいなかったとして、戦争責任を「日本国民」に押し付けたのである。いわゆる「一億総ざんげ」である。


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