柄谷行人が朝日新聞の書評で奴隷制についてコメントしていた。ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房)での仮説 「奴隷制が国家を可能にし、国家が農業革命を可能にした」に対してである。
「メソポタミアに成立した「アジア的専制国家」……、そこでは、都市国家間の戦争の結果として、捕虜が生じたが、彼らは奴隷にはならず、臣民として受け入れられたのである。……国家機構の要にある官僚も、宦官や奴隷であった。その意味で、国家は人民の隷従化、すなわち「臣民」の形成によって生じたといってよい」とコメントしたのである。
スコットの書が手元にないので、その本にある仮説自体はまだ確認できないが、ローマ帝国のことを言っているのではと思う。
カウツキーは、『キリスト教の起源』や『中世の共産主義』で、「ローマ帝国拡大の侵略戦争の結果、安価な奴隷が入手可能になり、大規模地主が出現し、自作農が零落した」「安価な奴隷が入手できなくなると、奴隷による農業生産が自作農に競争できず、奴隷制が維持できなくなり、ローマ帝国が衰退した」という仮説を述べている。
古代西アジアの「奴隷」とはどのようなものであったか、柄谷のコメントに私も補いたい。
日本語聖書を読んでいると、同じヘブライ語の単語を「奴隷」と訳したり、「しもべ」と訳したりしている。ヘブライ語の “עבד”(エベド)と “שפחה”(シフクヮウ)である。前者が男性名詞で、後者が女性名詞である。
はじめ、これがどうしてか、非常に悩ましかったが、中東の古代社会では、「奴隷」も「しもべ」も同じことだった、と いまは理解している。
古代社会では、同じ人のために継続して働く人が奴隷である。そういう意味で柄谷の言うように、臣民=奴隷と解釈してもよい。逆に、古代人が現代の勤め人(賃金労働者)を見たら、彼らが「奴隷」か「自由人」かの判断に迷うであろう。
旧約聖書の『サムエル記上』 8章で、イスラエルの民衆が他国と同じように「王」をもちたいと叫んだとき、王をもてば「あなたたちは王の奴隷となるであろう」とサムエルは警告する。警告にもかかわらず、民衆は「王」をもった。
この「奴隷」は “עבד”の複数形 “עבדים”が使われている。そして、有名な言葉、「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」の「奴隷」も複数形 “עבדים”である。
旧約聖書は、祭司が書いたものだから、「せっかく、エジプトで奴隷であったのを解放したのに、民衆はみずから王の奴隷になった」と皮肉なたっぷりに書かれている。
古代では、奴隷だからといって、鎖につながれているわけでない。なぜ、逃げないのか、これも、はじめ不思議だったが、逃げても、土地も家畜も家をもたないから、生活ができないのだ。
『創世記』16章にハガルというエジプト人の女奴隷が出てくる。ハガルがアブラハムの子どもを身ごもって生意気になったという理由で、アブラハムの正妻サライがハガルを追い出す。ハガルは荒れ地を飢えと渇きでさまよう。追い出されると過酷な運命が待っていたのだ。この点でも、古代の奴隷は現代の勤め人と似ている。
では、「奴隷」という訳語が間違っているのか。古代の「しもべ」は物のように売られたり買われたりするから「奴隷」なのである。
お金で買われた奴隷“מקנת כּספו”と家で生まれた奴隷“יליד בּיתך”との区別がある。お金で買われた奴隷が生んだ子供は家で生まれた奴隷となる。
『創世記』14章でアブラハムが、親族のロトを救出するために、奴隷を率いて敵を追ったが、このときの「奴隷」は “יליד בּיתך”である。
奴隷になるのは、戦争での捕虜が売られてのこともあるが、生活苦や借金返済のため、みずから奴隷になることも多い。だから、ユダヤ人がユダヤ人の奴隷をもつことも当然ある。これは古くからの慣習である。シュメール遺跡からの楔文字資料のなかに、種籾が返せなくて奴隷になるという記述もある。
もちろん、奴隷の生活は楽ではない。『ヨブ記』7章2節に「奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む」という言葉がある。
だから、マルコ福音書10章44節の「いちばん上になりたい者は、すべての人の〈しもべ〉になりなさい」は、非常に過激(ラディカル)なイエスの言葉である。
そして、奴隷制は、『ヨブ記』のいうように奴隷本人にとって苦しく、カウツキーのいうように非効率な生産様式である。だから、近代になって奴隷制がなくなったはずである。
ところが、なぜ、現代になって、また、人のために働く「奴隷制」が復活したのだろうか、これは まだ 私にとって疑問のままである。
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