5日前から保坂正康の『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)を読んでいる。あの戦争とは、1941年のアメリカと日本との戦争である。真珠湾を奇襲攻撃せざるを得なかった戦争である。
読んで保坂の振り返りと、加藤陽子の振り返りとに違いがあるのに気づいた。もう一度、加藤の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)、『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社)を読んで、比較しないといけないと思う。
保坂と加藤の世代の違いが、アメリカと日本との戦争の受け止め方に違いを引き起こしているように思える。文章においても、保坂が戦前からの日本語を使っており、加藤は英書を多数読んだ人特有の、粗い言明を細かい注釈で補っていく文型を使っている。私自身も、加藤のように、ついつい、英語を日本語に翻訳したような文章を書いてしまうことがある。
保坂は「あの戦争」の誤りを「軍国主義」に帰す。ただ、彼の言う「軍国主義」とは何かは私にはわかりにくい。彼は「軍部」を「軍の政策や戦略を司る中枢部」とし、つぎのように言いきる。
<「軍国主義」とは、そうした中枢部が発する命令、彼らの時代認識からくる戦略がどういったものだったか、それを指して定義するもの>
わかりにくい定義である。「命令」と「戦略」とが同格で、「どういったものだったか、それを指して定義」では、本書を注意深く読んで自分で考えろと言っているのと変わらない。
加藤は、軍部が日本とアメリカの戦力の差、社会の体力の差を分かっておりながら、日本が戦争に進んでいったことを、なぜかと分析する。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』のタイトルがほのめかすように、「軍国主義」というより、「国体」とも言われる明治以降の日本の社会体制、あるいは、明治憲法(大日本帝国憲法)に象徴される国の理念が、避けられる戦争を行った、と加藤は言う。
「軍国主義」が悪いという保坂の歴史のとらえ方は、半藤一利や司馬遼太郎と通じるものがある。その「軍国主義」を「尊王攘夷」と理解すれば、加藤との接点を見いだせると思う。加藤は、外交交渉で解決できるのに、軍人以外の日本人もあの戦争を選んだと言いたいので、「それでも日本人は」と言っているのである。
「軍人以外の日本人も」という視点は重要で、「軍国主義」ではない現在の日本政府も戦争を選ぶ可能性があると警告していることになる。
「尊王攘夷」は劣等感に満ちた被害者意識である。明治以降の日本政府は、「和魂洋才」と言いながら卑屈に欧米列強の文化を取り入れた。「尊王」という非合理性を含んだまま「富国強兵」路線に走ったのである。
そして、1937年に始まった中国との戦争に勝てないのは、中国の背後にアメリカやイギリスやロシアの軍事援助があるからだと考え、アメリカと戦わざるを得ないという自縛に日本政府が陥ったのである。
劣等感に満ちた被害者意識は形を変えて、現在も引き継いでいる。自民党はアメリカに卑屈に従ってきたにもかかわらず、アメリカの占領軍に押しつけられた「日本国憲法」を廃棄して「自主憲法制定」を言い続けている。自衛隊を憲法に明記して何をしたいのかがない。
保坂は、真珠湾を奇襲攻撃して、その戦いに勝利できたが、その後どうしたいのか、なぜそうするのかがない、と言う。保坂は、これを「軍部」に戦略がないと言う。まさに、いまのロシアのようであったのである。
劣等感に満ちた被害者意識は、愛国主義の形で、アメリカの命ずるままにアメリカに敵対する国に向けられていく。それだけでなく、本来友好国であるべき、韓国までに敵意をふくらます。合理性がまったくないのだ。合理性がなければ、戦略も当然ない。外交交渉ができるはずがない。
憲法を改正し、軍備を増強し、どうなりたいのか、自民党や日本維新の会、国民民主党になんの考えもないのである。「それでも日本人は戦争を選んだ」と100年後に言われないように、いま生きている日本人も自省しないといけない。
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