きょうの朝日新聞にマクロ経済学者 諸富徹のインタビュー記事が載っていた。大見出しの『資本主義 日本の落日』に小見出し「環境対策を軽視し ものづくりを過信 世界の潮流乗れず」「成長がなければ 固定化する格差 産業構造変革を」がつく。デジタル版では大見出しが『「老衰」する日本の資本主義 経済学者・諸富徹さんの処方箋は』である。
諸富は私より20年若い。しかし、彼の言っていることは何かまちがっている気がする。
「落日」とか「老衰」とかいう言葉の踊る諸富の主張を要約すると、「日本の製造業はモノからサービスへとかじを切らなければいけない」ということになる。
私は「ものづくりは技術革新の源である」と考える。私は14年前までIBMに務めていたが、「サービス」とは金融業のことであり、飲食店のことではない。「ものづくり」は依然としてだいじである。
アメリカの支配階級の思考法の優れている点は「システム化」「戦略的思考」にある。すななわち、古代ローマ人の思考法を引き継いでいるのだ。
トランプ政権あたりから、アメリカの仮想敵国が中国になっている。
それ以前は、中国は13億の人口をかかえ、眠れる巨大市場と見なされていた。日本の人口の10倍だから、いずれ、日本より10倍、モノが売れるはずと考えられていた。
それが、トランプ政権から、中国がアメリカの経済的優位を脅かす存在になるという見方がアメリカでの主流になっている。
アメリカ政府やシンクタンクの警戒心はあたっている。中国社会にはシステム化や戦略的思考の基盤があり、その中で、ものづくりをしている。
アメリカの「ものづくりからサービスへ」の流れは、アメリカ人の中から勤勉さが失われつつあるという現実に押されての話である。「ものづくりからサービスへ」が正しい選択というより、それしか できないという現実を受け入れたとのことである。
もっとも、アメリカは「ものづくり」をやめたわけではない。移民を受け入れ、アメリカの豊かな生活にあこがれひたすら働く集団を用いて、「ものづくり」を続けている。アメリカは兵器の開発では質量ともに世界のトップである。
諸富はやたらと「デジタル化」に日本は遅れたと言う。日本で「デジタル化」が日々の経済活動のなかで進まないというのは、「システム化」の発想が定着化しなかったということである。個々の会社を見れば、コンピューターの利用は進んでいると私は思っている。
私は、「デジタル化」が遅れているのは製造業より行政府であると思う。
政府が日本の経済を引っ張るという考えに根本的間違いがあると思う。明治の「文明開化」の亡霊が政府の中に残っている。経済産業省の役人にそんなことができる「脳みそ」が詰まっているはずがない。「自由市場経済」と言いながら、上に忠誠を誓う役人が、市場に介入している。
日本政府が「様々なステークホルダーに配慮するあまり、痛みを伴う決断を先送りしてきた」と諸富は言う。「生産性の低い産業が人件費カットで生き延びるのを防ぎ、産業の高付加値化」を諸富は促す。政府の基盤は議会の多数派であることだ。議員は選挙で勝ち残りたい。だから、政府が「痛みを伴う決断」ができるわけがない。
日本政府は市場に直接介入することはやめなければいけない。政府が企業の合併をおし進め、大企業をつくる必要はない。日産や東芝やパナソニックの失敗の原因は、経産省の指示に従ったり、「財テク」に走ったりしたことにある。
政府がやるべきは戦略的思考のできるエコノミストやストラテジストを育てることである。人を一時的に一堂に集め、経済分析と戦略の議論を促し、そのレポートを発行する。直接、経済に介入しない。無能な経営者を助けない。
すなわち、経済産業省が、かってに、電力の再生エネルギーの比率、原発の比率を決めて電力会社に押しつけてはいけない。通産省の指示に従っていれば、電力の地域独占が守られるなんて、あってはならない。
製造業がエネルギーや資源を節約する「ものづくり」を進めていくのは当然なことである。しかし、人間は食べるもの、着るもの、雨や寒さを防ぐ住処が必要である。モノはつくっていかねばならない。モノをつくっている国にこそ、未来がある。
アメリカが「モノからサービスへ」と転換してやっていけるのは、「軍事大国」であるからで、日本が見習うべき国ではない。日本に住む私たちは、ものづくりの勤勉な国民でありつづけて良いのだ。
[補足]
ものづくりのなかに、私は、製造業だけでなく、農業や建築業なども含めている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます