猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

トーマス・マンはなぜ、ナチスに嫌われ、国から追放されたのか

2019-12-03 22:26:19 | 思想


私は、「トーマス・マンは正装を好むドイツの古典的な教養人であった」がゆえに、感覚的にナチスを拒絶したと思っていた。ことは、もっと根深いことを、1930年の彼の講演「ドイツの呼びかけ 理性に訴える(Deutsche Ansprache Ein Appell an die Vernunft)を読んで、思い知らされた。

この講演は、岩波文庫の『ドイツとドイツ人 講演集』に採録されている。翻訳者の解説によれば、マンは1930年10月17日ベルリンのベートーヴェン・ホールで講演し、客席のナチス党員が騒いで講演を妨害した。

マンは、この3年後、ナチスが政権を握った年、1933年2月11日、オランダ・フランスへ短期の講演旅行に出かけたとき、ナチスによって再入国が拒否されたのである。

ベルリンの講演では、マンは、芸術の価値からゆっくりと語りはじめ、ドイツを取り巻く内外の政治的経済的状況、市民社会が築いてきた理念を丹念に語り、その上で、国家社会主義党(ナチス)を名指しで非難し、マルクス主義と社会民主党(SPD)を擁護する。

トーマス・マンは、市民社会の理念「自由、公正、教養、楽天主義、進歩への信仰」と、「民主主義的議会主義」を引き継ぐものが社会民主党であって、それを破壊するものがナチスであると明確に言い切っている。

原文はネット上にあがっていないので、「国家」と訳されているものは “National”であろうと推量しているだけだが、“National”は「国家」というより「国民」というニュアンスで民族主義的匂いの強い言葉である。

講演では、「国家社会主義」とは「フランス革命に始まった市民時代とその理念の世界は終焉を告げており、いまは時代の転換期であるという感情」であって、その実態は「生の概念を思考の中心に据える非合理主義的反動であって、無意識なもの、ダイナミックなもの、暗く創造的なものの力を、唯一それのみが生命を賦与する力であるとして高く看板を掲げ、精神を単に知的なものと解して、これを生命を殺すものとして忌避し、このような精神に対抗して魂の暗部を、母性的で地底の冥府に通じるようなものを、神聖にして多産な地下の世界を、生命の真実として称賛」するものだ言う。

そして、このような思想は決してドイツ的なものではない、というのがトーマス・マンの主張であった。

非常に優れたナチス批判である。

失敗した黙示論者としてのイエス像を唱えるシュヴァイツァー

2019-12-02 22:53:28 | 聖書物語

「人の子」が人間たちに審判をくだす物語が書かれているのは、新約聖書の『マタイ福音書』だけである。それゆえ、アルベルト・シュヴァイツァーは、『マタイ福音書』こそ 初期キリスト教の本当の姿を伝えると考える。

彼は、アフリカでの医療奉仕で1952年にノーベル平和賞を受賞した人として多くの人に知られている。じつは、彼は牧師の息子で、「史的イエス」の研究者でもある。そして、「失敗した黙示論者としてのイエス像」を唱え、自由主義神学者のイエス像を、近代の理念で飼いならしたものであると非難した。

彼の書いた本 “Geschichte der Leben-Jesu-Forschung” は、日本語に翻訳され白水社から『イエス伝研究史』として出版された。その復刻版はとても高価だ。

「自由主義神学者」という言葉は、中傷のレッテルであって、定義そのものは、非難する人によって異なる。保守的プロテスタントからすれば、同志社大の神学部の先生たちは、自由主義的神学者となり、許されない存在となる。

シュヴァイツァーが非難したのは、19世紀末から20世紀第2次世界大戦前の革新的プロテスタントに対してである。

私からすれば、「失敗した黙示論者としてのイエス像」を唱える理由がよくわからない。もう一度彼の本を読むしかないが、「失敗した」ということは、キリスト教自体が間違っていたと言っているようにも思える。すると、彼はキリスト教の信仰を捨てたのであろうか、彼のアフリカでの奉仕活動のエネルギーはどこから来たのか、という疑問がわく。

神の国が来て「人の子による審判」は『マタイ福音書』の25章31節から46節までに書かれている。そのはじまりの4節を共同訳で下に示す。

「人の子は、栄光に輝いて天使たち(οἱ ἄγγελοι)を皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、」
「羊を右に、山羊を左に置く。」
「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」

カルヴァンの予定説では、「神の国を受け継ぐ人たち」は「おこない」によらず最初から決まっているが、『マタイ福音書』では、その理由を「おこない」として、続く2節に示す。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、」
「裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」

「人の子」が貧民に、旅人に、病人に装っていたというより、一般論として弱者に対して どうふるまったかを問うている。ヨセフスの描くエッセネ派の倫理規範と同じく、困っている人を助けるかを「人の子」は問うているのだ。

それでは、左側に行ったものはどうなったのか。41節から43節を下に記す。

「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔(τῶ διαβόλῳ)とその手下(τοῖς ἀγγέλοις)のために用意してある永遠の火に入れ。」
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、」
「旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』」

「予定説」が出てきた背景として、「おこない」が問われば、新興富裕層に都合が悪く、「平等」の概念をもカルヴァンが否定する必要があったからだ、と、フロムは『自由からの逃走』で書く。カウツキーも同様な考えを『中世の共産主義』で示している。

ところで、イエスがはりつけになっただけではなく、この『マタイ福音書』が書かれる前に、ユダヤの神殿はローマ軍によって破壊され、神はそれを妨げなかったのである。そして、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』に書いた通り、いくら待っても「人の子」は再び あらわれなかったのだ。

シュヴァイツァーが「自由主義神学者のイエス像を近代の理念で飼いならす」と言うのは、「人の子による審判」をキリスト教の教義から取り除くことをいっている。イエスが失敗した黙示論者で、神の国や審判が永遠に来ないとすると、シュヴァイツァーは何を生きる動機にしたかの謎が残る。共産主義者になればよかったのに。

エッセネ派とは何か、カウツキーの『ユダヤ戦記』からの引用

2019-12-01 23:52:47 | 聖書物語


カール・カウツキーの『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、「原始キリスト教的共産主義の本質」の節でエッセネ派の紹介を行っている。

「原始キリスト教的」というのは変な言葉だが、ドイツ語 “urchristlichen” の訳で、「初期キリスト教の」という意味で、新約聖書に描かれる「イエスや使徒や初期のキリスト教徒の時代」を指す。

じつは、新約聖書には、「エッセネ派」は出てこない。出てくるのは、ファリサイ派であり、サドカイ派である。エッセネ派が語られるのは、新約聖書の福音書が書かれたのと同じころのフラウィウス・ヨセフスの著作である。ところが、逆に、彼の著作にはイエスやキリスト教徒についての記述がない。

キリスト教徒とエッセネ派とが一致すれば問題ないが、キリスト教ではモーセの掟を無視し、エッセネ派はモーセの掟を厳密に守ろうとする。『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』では、イエスは安息日や食べ物の忌避の掟を破り、『トマス福音書』では、イエスは割礼の必要性を否定する。エッセネ派では、大便をするにも、住居から離れた場所まで行ってするのは、安息日には禁止される。

カウツキーが引用したのは、ヨセフスの『ユダヤ戦記』の第2巻8章3節4節である。引用したのは、エッセネ派がそこで私有制を否定しているからである。そして、エッセネ派は強盗と闘う武器以外は何も持たずに旅にでる。エッセネ派の旅人が来ると、町のエッセネ派の人は、はじめて会う人でも受け入れ、一緒に食事をするという。

何も持たずに旅に出るところは、福音書で、病人を癒し福音を伝えるために、イエスが使徒を町々に旅に出すとき、何も持たないで行けというのに似ている。また、イエス自身も町の人から施しをもらいながら旅をする。

『マタイ福音書』では、さらに、25章31節から46節にかけて、神の国がこの世に訪れたときの「人の子」の裁きで、空腹で のどの渇いた旅人を助け、病人の世話した者に、神の国をあたえ、逆に、助けず、世話をしなかった者に罰を与える。この部分は、ほかの福音書にない記述であるが。

『ユダヤ戦記』に書かれたエッセネ派の記述は混乱しているように見えるため、エッセネ派にさらにいくつかの派に分かれていたとみる学者もいる。

しかし、私は、ヨセフスの描いたエッセネ派の行動パタンは、かなりが、貧民の慣習でなかったのではないか、と思う。何かの教義からくるより、貧民は食べ物を共有し、助け合うしか生きる道がなかったのではないか。生まれながらのエリートのヨセフスは、貧民の生きるすべを知らず、貧民の行動パタンすべてをエッセネ派のものとしたのではないか。
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『ユダヤ戦記』のエッセネ派の説明を今回はじめて読んで、私の思い込みが訂正されたのは、エッセネ派も都市にすむ集団であることだ。死海北西のクムラン洞窟で多量の文書が発見されたことで、エッセネ派が洞窟に隠れて住むと思い込んでいたが、これは一般的ではないようだ。

カウツキーは『ユダヤ戦記』の2巻8章4節から
「彼らは1つの都市にいっしょに住まないで、多くの都市に特別の家をもち」
と引用する。

対応する箇所のPegasus Digital Libraryのギリシア語原文では
「彼ら自身の都市はもたず、それぞれ都市(複数形)に移り住む(Μία δ᾽ οὐκ ἔστιν αὐτῶν πόλις ἀλλ᾽ ἐν ἑκάστῃ μετοικοῦσιν πολλοί)」
とあり、「特別の家をもち」とはない。

William Whiston による英語への翻訳(1841)では、この箇所は、
“They have no one certain city, but many of them dwell in every city”
となっている。

これは、底本が違うと言うより、自分の主張との整合性のために、カウツキーは自分の解釈で言葉をおぎなっている、と、私は大した理由もなく思っている。

とにかく、エッセネ派は都市に住む信仰集団(αἱρετιστής)である。初期キリスト教徒とエッセネ派の行動様式にみられる一致点は、それが都市の貧民の生きるすべであったからだと思う。