猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

朝日新聞の吉野彰インタビュー記事『企業研究者の誇り』に一言

2019-12-09 23:17:57 | 社会時評

ノーベル化学賞の受賞した吉野彰のインタビュー記事が、12月4日の朝日新聞の《オピニオン&フォーラム》に『企業研究者の誇り』というタイトルで載った。

企業の研究所にいた者として、同意できるところもあるが、同意できないところもある。吉野彰は少し「いい子ちゃん」ではないか、あるいは「エリート」ではないか、という気がする。

吉野はつぎのように答える。

「企業の研究者は『論文』ではなく、まず『特許』で結果を出しますからね。」
「しかも特許というのは、できるだけ中身がわからんように書くのがコツでね。」

「特許を先に出す」というのは、30年前の日本化学会のガイドだから、仕方がないとしても、「中身がわからんように書く」というのは、いただけない。

IBMの研究所は、昔、自分たちの研究力に誇りがあったから、特許を先に出すのではなく、発見および発明を日付と共に研究ノートに書き込み、それを同僚が確認してサインした。自慢したい発見、発明は、研究所が公刊していた。発見、発明の学会発表も自由だった。

すなわち、IBMの研究所では、自分たちの研究・開発・製造を特許で守るという考えはせず、特許侵害で訴えられないように、自分たちの発見・発明が先だという証拠を残せば良かったのである。

ところが、特許の使用権ビジネスや、特許で他の企業の開発・製品化を邪魔できることで、学会自体が「特許を先に出す」というガイドを出すようになった。他の企業の研究・開発を邪魔するというのが、「中身がわからんように書く」ということである。

特許の理念は、人類共有財産になる貴重な発明や発見が、世に知られないまま、失われるのを防ぐためである。発明や発見の利用を、期間を区切って、独占できると、国が保証するかわりに、産業上有用な発明や発見を公開させるのが特許制度である。企業同士が意地悪合戦をするためではない。

したがって、「中身がわからんように書く」というのは、特許の理念に違反する。

さて、現在、日本化学会は論文を書くようガイドをだしている。特許を書けば事足りるとしてきたために、日本化学界の知的レベルが国際的に下がってきたことを、反省しているからだ。論文を書くということは、科学技術を底上げするに必要なことである。

つぎに、インタビュアーの記者が、日本でのイノベーションが生まれにくいのは終身雇用制度だ、競争こそがイノベーションを生むという意見を、吉野彰にぶつけていた。吉野は即座にそんなことはないと否定した。

米国には定年という考えはない。IBMの研究所は、研究に飽きないかぎり、務められた。定年があるということは、終身雇用ではない。私のカナダの大学でのボスは、80歳になっても、大学に研究室があり、毎日通っている。

これは単にコストパフォーマンスという経済的問題であり、高い給料を要求しなければ、企業としては、研究を続けてもらって かまわないのである。

イノベーションが生まれるには、その個人に自由な心があるのか、努力を続けられるのか、が関係しても、競争が研究所に導入されているかは関係ない。そういう意味で、人格的資質が重要である。企業の研究所は研究環境を提供するだけだ。アメとムチでイノベーションが生まれるのではない。

吉野は「会社から『成果をださなくてもいいよ』と言われた」と答えているが、企業の研究所は、このように、本来、ゆるいものである。

フィリップ・W・アンダーソンは、1949年から1984年まで民間企業のベル研究所に務め、1977年にノーベル物理学賞を受賞している。彼は、企業は一流の学生を雇う必要はない、企業の研究者は二流の学生で良いのだ、研究が大好きであればよいのだ、と言っている。

また、新日鉄の研究所の素材研究者は、口の立つ子は信頼できない、地味な顔の子でないと研究がつづかないと私に言っていた。

吉野のインタビューでわからないのは、独りで研究していたのか、2,3人で研究していたのか、10人程度のプロジェクトであるのか、ということである。

研究に成功し、開発のフェーズになれば、予算も人手もつくのは、企業では当然である。問題は研究に成功するまで どうだったのか、ということである。この点について、吉野も記者も言及しないのは、片手落ちである。

企業の研究は仲間といっしょにするものである。吉野はこのことをどう考えているのだろう。

また、この記事ではないが、朝日新聞大阪科学医療部は、吉野のリチウムイオン電池は「改善」であって、同レベルの仕事をした人にもノーベル賞が与えられよう、同一分野は3人に限るという原則をやめた方が良いと提起していた。

私は、3人に限るという原則は守った方が良い、と思う。画期的な研究、発見、発明に賞をあげるのが目的だから、本来、該当者が多数いるのではおかしい。それでは画期的でないことになる。吉野のリチウムイオン電池の発明が画期的でないというのなら、その理由を明記すべきだと思う。ノーベル賞委員会と異なる判断をいうこと自体は あっても良いことだが。

きょうは日米開戦、真珠湾奇襲攻撃の日から78年

2019-12-08 22:38:55 | 戦争を考える


きょう、12月8日は、78年前に、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日である。日米戦争(太平洋戦争)が開始された日である。

あすは朝日新聞の休刊日というのに、今日の朝日新聞で、78年前の真珠湾攻撃に言及しているのは、『天声人語』だけである。つぶやきとして言及するのではなく、ちゃんと論説すべきではないか。

1年前のきょう、朝日新聞は種々湾攻撃について、次のように記している。

「1941年12月8日、旧日本海軍の空母6隻、航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃。米軍艦6隻が沈没し、米兵約2400人が亡くなった。日本側の被害は未帰還の航空機29、帰死者64人など。宣戦布告が遅れ、米国では「だまし討ち」との批判がある。」

作家など知識人は、日米開戦にどう思ったのだろうか。きょうの『天声人語』によれば、大正デモクラシー期の著名な作家の武者小路実篤は開戦直後につぎのように書いているという。

「真剣になれるのはいい気持ちだ。僕は米英と戦争が始まった日は、何となく昂然とした気持ちで往来を歩いた」

武者小路だけではない。ドナルド・キーンの『日本人の戦争―作家の日記を読む』によれば、多くの日本の作家たちや文芸評論家たちが、1941年12月8日の真珠湾攻撃に感激し、「黄色の肌の大和民族が白人を打ち破る時がきた」と、日記に書きつづった。

戦後「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で人気を集めた英文学者伊藤整は12月9日の日記につぎのように書いた。

「私などは(そして日本の大部分の知識階級人は)13歳から英語を学び、それを手段にして世界と触れ合ってきた。それは勿論、英語による民族が、地球上のもっともすぐれた文化と力と富とを保有しているためであった。(中略)この認識が私たちの中にあるあいだ、大和民族が地上の優秀者だという確信はさまたげられずにいるわけには行かなかった。(中略)私たちは彼等のいわゆる「黄色民族」である。この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ。」

すなわち、真珠湾攻撃によって、いままでの英米に対する劣等感が振り払われ、スッカとした(昂然とした)と大部分の知識階級人が言っているのだ。

智恵子抄を書いた純情詩人の高村光太郎も、真珠湾攻撃の一報を聞き、智恵子との官能的愛を歌い上げるのをやめ、「天皇あやふし」「私の耳は祖先の声でみたされる」と言い、「個としての存在」から「共同体精神の卓越した表現人」として、戦争を鼓舞する詩を書いた。

ところが、『拝謁記』によれば、昭和天皇は、戦後、つぎのように語ったという。

「「五五三の海軍比率が海軍を刺戟して 平和的の海軍が兎に角くあゝいふ風ニ 仕舞ひニ 戦争ニ賛成し 又比率関係上 堂々と戦へずパールハーバーになつた」

この発言は、真珠湾攻撃が奇襲攻撃であると認めている。しかも、1921年のワシントン海軍軍縮条約が、1941年の日本の真珠湾奇襲攻撃の遠因になったとまで言っている。

昭和天皇は、日米開戦の理由もはっきり認識していて、つぎのように言う。

「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか 或いは 適当ニ 妥協して あとの事ハ 絶対駄目と出てくれゝば よかつたと思ふ」

日米の衝突は、日本が、満州事変を機に、中国東北部を植民地化したことにあると、昭和天皇は認識している。

4年前の8月の「戦後80年談話」では、安倍晋三は、その点をあいまいにしている。

「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。」

あたかも、日本こそ被害者のような表現となっている。そして、3年前の12月27日に真珠湾の慰霊碑に訪れ、つぎのようにスピーチした。

「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江」

と、その感傷の言葉が最後まで続き、その途中に、「The brave respect the brave. 勇者は、勇者を敬う」を引用し、お互いによく戦ったではないか、と戦士をほめたたえる挿話をいれた。

そう、安倍晋三は軽いのである。日本の過去のあやまちを顧みないのである。

評論家の保阪正康は、2日後の朝日新聞のインタビュー記事で次のように言う。

「真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われた。私たちの国はどんな教訓を学んだのか。首相のスピーチの眼目はそこにあったが、真珠湾という「点」からしか語られず、深みはなかった。」
「首相のスピーチは戦争の一部だけを切り取り、ポエムのように語っている感じだった。」

真珠湾攻撃は奇襲ではない、アメリカの陰謀だと言う人がいるが、日本のサムライの伝統的戦術は奇襲である。まともに戦えば、戦争は消耗戦になる。源義経は、背後から突然平家を襲い手柄を立てた。また、いまでも、鎌倉の地中から、不意討ちの夜襲で死んだ人の人骨が大量にでてくる。鎌倉政権内部で互いに奇襲で殺し合っていたのだ。

たぶん、戦争にルールがないのは日本だけではないだろう。真珠湾攻撃に関連して、秦郁彦は、軍人は戦争をしたがるもので、武士道では、夜襲をしても、枕を蹴っ飛ばして殺せば、起こしたのだから、それでいいのだとコメントしていた。戦争に正義はない。戦争はしてはいけないのだ。

日本政府は、真珠湾攻撃の30分前に米政府に「宣戦布告」の文書を渡すように、米駐在大使に指示したという。そしては、実際には、その文書が米政府に渡されたのは真珠湾攻撃の1時間後であった。

米国政府に渡すように米国の日本大使館に打電した文書は14部からなる大量のものであり、それまでの交渉経過を長々とかいてあり、最後の3行に日米交渉の打ち切りの旨が書かれていた。宣戦布告とは書かれていない。

したがって、これを傍受し、暗号解読ができても、すぐには宣戦布告と米国政府は理解できないだろう。日本的あいまいな意思伝達手段を用いたのである。

最後になるが、きょうのNHKテレビは、真珠湾攻撃の犠牲者の追悼式典の報道をつぎで終えている。

「真珠湾攻撃から78年がたち、当時の体験を語ることができる人が少なくなる中で、アメリカでは当時の記憶を若い世代にどのように伝えていくかが課題となっています。」

だいじなのは、「どのように」ではなく、「なにを」伝えるかで、「当時の記憶を」では、その答えになっていない。「真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われたことからの教訓」こそ重要なのである。

幼児教育無償化より子どもを手放さない経済的環境を

2019-12-07 21:16:46 | 育児

(Yahooブログから、ブログ廃止により、こちらに引っ越しました)

幼児教育の無償化を安倍晋三首相がテレビ越しで語っていた。それを聞いて私は不安になった。幼児教育の無償化があるべき姿なのか。それより、親が自分の子を愛を持って育てられる経済的環境のほうが大事なのではないか。

私の父は、赤紙1枚で戦地に送られ、私の兄が4歳をすぎるまで、戦地から戻れなかった。父は努力したが、父と兄は互いになじめなかった。父は自分の店をやっていたから、私よりずっと家庭的だった。家族みんなで食事をし、一緒に、海や山に出かけた。それでも、父と兄は互いになじめず、父は認知症で死んだ。兄は父の遺産の受け取りを拒否した。

私の働くNPOにも、わが子が重大な病気をもって生まれ、ずっと親子が何年も離され、病気が治って病院から戻ってきたとき、どう接していいか、わからず、今でも悩んでいるケースがあることを知っている。下の子とどうしても同じ気持ちで接することができないのである。子どもは18歳になっている。

子どもを保育園に預けて働くことより、生まれた子どもに十分な愛をそそいで育てられるほうが、親にとっても子どもにとっても幸せではないか、と思う。

古代ギリシアの保守派哲学者、プラトンは、子どもを親から切り離し、社会の子として育てることを、理想とした。子どもを生まれたときから、弱肉強食の社会に放り込むことを、プラトンは理想としたのである。現代の哲学者、バートランド・ラッセルは、実は、それは古代スパルタの社会そのものだと明かす。プラトンの時代、アテネは、スパルタとの戦争に負け、属国になり、プラトン一族はスパルタ従属派であった。

なぜ、わざわざ、わが子を集団の中に、餌食として投げ込むのか、私は、その気持ちがわからない。「三つ子の魂百まで」という。政府やメディアに騙されず、3歳まで親の愛のもとで育てたほうがよい。

福岡で保育園が子どもたちを虐待していた、とテレビが報道していた。保育園で子どもに十分な愛情をもって育てようとすると、どうしても人手が足りなくなる。すなわち、保育園で子どもを育てることは本来お金がかかるのである。普通の親が働いて得るお金よりも多くのお金を保育園に払う必要が生じる。普通の親が払える料金にしようとすると、虐待が生じる。すなわち、保育士に従わない子どもは悪い子として罰せられる。

安倍晋三は、女性が賃金労働者になることばかりを重視しているのではないか。お金をもらって働くことがだいじなら、昭恵夫人はなぜレジやコンビニ弁当作りで働かないのか。安倍晋三は何も考えず、選挙目当てで話しているだけではないか。

私が思うに、子育てで3年間休職しても、職場に復帰できるようにすべきである。子育てで休職しても、家族が食べて行けるようにすべきである。経済的保障のことである。子どもを職場に連れて行って、子どものそばで働けるようにするのもいい。子どもを抱えて通勤できるよう、通勤電車の配慮があるべきだ。

私は、スパルタのような子育てはまっぴらごめんだ。

一方的なカジノ誘致説明会でなく、横浜市民の民意を聞け

2019-12-06 22:31:44 | カジノ反対

12月4日に横浜市が「カジノ誘致」の説明会を行ったが、ひどいものだった。朝日新聞は、全国版では、これを報道していない。横浜版でも「市長力説も根強い反対」という見出しをつけ、説明会の実態を伝えていない。

朝日新聞よりテレビの報道がはるかにましである。とくに日テレの「スッキリ」の報道が実態を明らかにしている。

朝日新聞の「市長力説」に反して、おざなりの説明を林文子市長がおこなった。カジノ以外の話しに大半の時間を使った。台風15号での行政対応の謝罪や港湾整備の実績や農場の話など、50分の市長説明のうち、関係のない話を40分間以上続けた。

しかも、質疑応答も直接受けるのではなく、質問を用紙に記入させ、司会者の女性が代読して市長が答えるというスタイルだった。

参加者が「多くの市民が反対していることを、市長の考えだけで進めるべきではない。カジノのないIRを進めるべき」と質問すると、林市長はマイクを手にして答えようとするのだが、司会者が「質問という形ではございませんので、これでは回答はございませんね」と勝手に切り上げた。

問題は、「市民討論会」とか「市民の意見を聴く会」とかではなく、市側の一方的「説明会」であったことである。横浜市が求めたパブリックコメントの、94%がカジノ誘致に否定的だったという。各社の世論調査でも、誘致反対が60%を超えている。

市長は、「税収が他の大都市に比べて少ないという現状を鑑みたら、色んな所でお金を生み出していきたい」をカジノ誘致の理由とした。

(1)カジノを誘致したら本当に税収が増えるのか、(2)税収を増やすためにカジノを誘致することは倫理的にゆるされるのか、という問いがある。

(1)の問いは事実認定問題なので、市長がその根拠を明確に示さなければならない。まず、カジノ誘致で、年間2000~4000万人の訪問者が見込め、宿泊者が増えれば年間6300億~1兆円の経済効果が見込め、年間最大1200億円の増収になるというが、信頼性があるのか。誰が、どのような情報にもとづいて、この数値を作ったのか。

日本で大成功の東京ディズニーランドでさえ、2施設合わせて年3千万人である。いったい、どのような人間がカジノに訪れるとしているのか。東京ディズニーランドを訪れるのは子どもづれの家族やカップルである。ギャンブルに横浜の山下ふ頭に来るのは誰か。こんなに多数のギャンブル好きがいるのか。客層と各個人の落とす金額の予想の根拠を明確にしないといけない。

また、年間最大1200億円の増収とは、経済効果 1兆円からの税収なのか、カジノだけからの増収はいくらと想定しているのか。カジノの経済効果は建設業関係者に限られる。しかも、期間が限定される。

日本総合研の藻谷浩介は、シンガポールのマリーナベイ・サンズも、中国政府がマネーロンダリング(資金洗浄)目的の中国人のカジノ利用を厳しく規制した結果、経営が苦しくなったと指摘している。

本来、このような事実検証は、横浜市議会で委員会をつくり、丁寧になされるべきである。ところが、誘致賛成の自民党と公明党が横浜市議会の多数派をなしていて、増収の根拠が議論されていない。とくに市民の味方のフリをしてきた公明党の責任が問われる。

(2)は「人の不幸で得したいのか」ということである。増収か倫理かという問題は、市側がかってに選択するものでなく、市民が選択するものである。とくに、市議会が「民主的議会制」の市民を代表するという約束を踏みにじっている現状では、横浜市民の意志を問う住民投票を行うしかない。

林文子市長は、ギャンブル依存症や治安悪化の対策には、マイナンバーカードなどによる入場制限、区域外周辺の防犯カメラ設置などを挙げた。外国人にはマイナンバーカードがない。パスポートを使うだろう。マイナンバーカードを使うとは、日本人客を期待しているからだろう。

ギャンブル依存症とは、だれでもがなりうることで、人間の脳は、リスクを冒して何かを得ることに快感を覚えるようにできている。この特性が起業に勉学に向かえば、本人も幸せになり、社会も発展する。カジノは、この特性を、偶発的な金銭のやりとりに、無駄使いさせてしまう。パチンコと違い、動く金銭の額と速度が、カジノでは桁違いに大きいのだ。

しかも、カジノは必ず胴元が儲かるようにできている。すなわち、客は必ず財産を失うようにできている。カジノは「客の不幸で儲ける」産業である。
このようなことは、まっとうな市民社会では倫理的に許されないことである。

OECDの「読解力」テストに日本の教育が左右されて良いのか

2019-12-04 22:47:57 | 教育を考える


経済協力開発機構(OECD)が11月3日に発表した学習到達度調査(PISA)の結果で、日本は「読解力」が15位となり、前回調査の8位から後退したことが、なにか、トンデモナイことかのように、メディアで報道されている。

冷静になって、OECDとは何か、PISAとは何か、「読解力」と何か、そんなに悪い結果だったのかを考えないと、経済産業省の「脱ゆとり教育」「PCを使いこなす教育」にだまされてしまう。

NHKは、このニュースの報道に次のようなコメントをつけている。
〈日本の教育政策はこの国際学力調査に大きく影響を受けてきました。2003年には、順位が下がったことがPISAショックといわれ、それまでの「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へと転換し、授業時間や教える内容の増加、さらに、全国学力テストの復活にもつながりました。〉

NHKが言っているように、日本政府は、16年前に すでに、「脱ゆとり教育」に舵を切っているのだ。そして、この間、「読解力」の順位はあがったり、さがったり、している。これは、「ゆとり教育」か「脱ゆとり教育」か、という問題とは関係ない ことを示している。

OECDとは、じつは、国連の組織ではない。1948年4月、冷戦時代に、共産主義国に経済発展で負けないために、西側諸国の経済復興を米国がリードするために、作った組織である。

PISAとは “Programme for International Student Assessment” の略称である。英語では、長期のプロジェクトのことをプログラムという。OECDが行うのは、経済発展を担う労働力の質の調査である。そこで、調査されているのは、実学の能力であり、一般的な学力や教養ではない。

簡単にそれを理解してもらうため、今回の調査でどこがトップグループになったかを見てもらえばわかる。「読解力」のトップは中国内陸部である。2位はシンガポール、3位はマカオ、4位は香港である。アメリカは13位、イギリスは14位、日本は15位、ドイツは20位、フランスは23位、オランダは26位である。別に差別しているわけではないか、なにか変だと思わないか。

それに、日本の「読解力」の得点504点はそんなに悪くない。偏差値になおすと57点である。偏差値とは、平均点を50点に、標準偏差を10点に変換したものである。

世界の人びとは異なる言語を話している。異なる言語を話している人々の言語能力に点数をつけて順位を出すことができるだろうか。不可能だし、比較することは失礼にあたる。

PISAの目的は経済発展を担う労働力の質の調査である。だから、「読解力」とは言語能力のことではない。「読解力」とは、「情報を探し出す能力」、「質問を理解する能力」、「情報を選択し評価する能力」で、特定の言語によらない情報リテラシーなのである。ちなみに、それぞれの日本の偏差値は、順に、54点、57点、55点である。すなわち、問われた質問の答えが書いてある場所を短時間で探しだす能力が54点であったというだけだ。こんなものがイノベーション生む能力と何の関係もない。

OECDのPISAは 先進国にとって もはや時代遅れで、後進国の実学を応援するものである。

こんなことで、「ゆとり教育」か「脱ゆとり教育」かを言い争うなんて馬鹿げている。

それよりも、だいじなのは、(1)簡単で明瞭な日本語を話し書くように教育すること、(2)記憶の無駄使いになる漢字の使用を厳しく制限すること、(3)古文、漢文を選択制にし、かわりに、韓国語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語を選択できるようにすること、(4)身分差別社会の遺物、敬語の教育をやめることである。

また、反共のOECDのPISAなんかに教育が かきまわされるのではなく、また、時代遅れの道徳教育なんか行うのではなく、国連が推奨しているLife Skill教育を実施すべきである。

Life Skill教育は、個人の権利を政府や多数派から如何にまもるかの生きる技術を教えるものである。いじめや不登校やうつの原因は対人関係のつまずきから起きることが多い。Life Skill教育は市民社会での対人関係を良好に保つ技術をも教える。