猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

マッチング理論もマーケティング理論も詐欺師たちの屁理屈

2021-06-08 23:02:22 | 経済思想


きょうの朝日新聞のオピニオン面は、東京大学マーケットデザインセンター長の小島武仁へのインタビュー、『社会変えるマッチング』であった。ヨイショ記事であったので、老婆心から言いがかりのような感想を述べたい。

マーケットデザインセンター(UTMD)は東京大学大学院経済学研究科・経済学部に敷設された研究センターの1つである。他につぎがある。

日本経済国際共同研究センター(CIRJE)
金融教育研究センター(CARF)
経営教育研究センター(MERC)
政策評価研究教育センター(CREPE)
不動産イノベーション研究センター(CREI)

驚くべきことに、すべて実用的な研究センターである。いま、「実用的な」といったが、「実業界のため」といったほうが適切である。どうも、卒業生のポストを作るために、自民党政権下の文科省の賛同を得やすい研究センターを粗製乱造したとしか、思えない。

私の学生時代の大学院経済学研究科は、緑色のヘルメットをかぶった構造改革派フロントの拠点であった。マルクス経済学の教授も多かった。そのころのマルクス経済学は、線形計画経済学とかいって実質的にはマクロ経済学が多かったように覚えている。そこが、いつの間にか、実業界(経営者の集まり)にうける研究をする人間たちが東大の実権をにぎるようになったようだ。

小島のいっていることは100年前からあることだ。東大は、アメリカで名声を得ると雇用したがるところがある。アメリカでの名声とは、反共産主義であって、実業界に有用な人間であることだ。

ただ、不思議なことに、私の学生時代には、アメリカの大学には教養主義的な雰囲気があって、学問が時の権力から独立しているところがあった。当時、アメリカの研究者たちから、日本は自由な研究の伝統を壊す、と苦情を言われることが、たびたび、あった。それらは、主として、企業の研究所の精神的風土のことをさしていた。

いま、私が気になるのは、どうも、日本の大学の研究者の精神的風土も変質したのではないか、ということである。教養主義や学問の自由が大学から消えうせているのではないか。

J・K・ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)で、実業界(大企業の重役)に沿う形で、経済学の通念がゆがめられていると、第9章、第10章、第11章、第12章で論じている。

第1の歪みは、「ものの生産の優位」である。必要だから生産するのではなく、生産するために生産するのである。国民総生産(GNP)の増加が政治で重視され、何が生産され、国民がどのように幸せになったかの議論がなされない。

第2の歪みは、「消費を煽るための宣伝と販売術」である。消費需要が生産限界を決めるというケインズの指摘が受け入れられると、消費欲望を煽るための宣伝と販売術が重視されるようになった。それまでは、競争相手に打ち勝つために、いち早く消費動向を知ることであったが、消費欲望を生産者側の大企業がつくるようになったのである。ガルブレイスは『ゆたかな社会』につぎのように書く。

《(近代的な)宣伝と販売術の目的は欲望をつくりだすこと》
《近代企業の戦術においては、ある製品の製造費よりもその需要をつくりだすための費用の方が重要である。》

私が外資系IT会社に務めたとき、電通や博文堂の人間が同じことを言っていた。また、トヨタから、宣伝費にお金をかけた方がよいか、それとも、販売店の報奨金を増やしたほうがよいかのために、効果の見積もり依頼が、コンサルタント会社にあった。

60年前のガルブレイスの時代より、歪みは、現在、より激しくなっている。ネット上のビッグデータで個人の消費動向がさぐれるようになると、押し込み販売というアイディアが生まれた。その1つが、マッチングデザインである。

小島は、「マッチング理論」の価値を売り込むために、待機児童の問題を取り上げている。

《いまは、希望する認可保育園に子どもが入れない親がいる一方で、定員割れする園もあります。多くの自治体は、家庭の状況をポイント化した点数を基に決めています》
《決定方法には、各園ごとにその園を第1希望にした人から点数の高い順に選ぶ方法と、全申し込み者の中から点数の高い人をまず選び、次にその人の希望園を見る方法の2種類があります。マッチング理論で考えると、前者は不公平で、後者の方が公平といえます》

問題は、認可保育園の定員絶対数が少なすぎるということと、認可保育園に人気のありなしがあるということではないか。あるべき解決策は、全体の定員数を増やすこと、また、人気の差を分析し、保育園側に問題があるのか、希望者側に問題があるのか、に応じて、当事者に改善を勧告すべきである。人気がない理由が、保育士が園児を虐待するのなら保育園側に改善してもらうしかない。通う近さの問題なら、近い人を優先する制度にすればよい。

私の人生経験からすると、マーケティング理論を唱える人もマッチング理論を唱える人も詐欺師にすぎない。自分を売り込むために次々と流行のキーワードをつくりだすのである。現代の政治家や実業人はこの詐欺師たちが好きである。

なぜ私や妻は新型コロナワクチン接種を予約できないのか

2021-06-07 09:26:05 | 新型コロナウイルス


これは、73歳の妻と私が、新型コロナワクチン接種の予約がとれるまで、5月24日から6月7日までの記録である。

   ☆    ☆    ☆    ☆

5月27日現在、73歳の私と妻がともに、連休明けに新型コロナワクチンの接種券が受け取ってから、まだ、接種の予約ができていない。納得できない。

規制改革担当大臣の河野太郎は、3月12日の記者会見で、1億4400万回分のファイザー社のワクチンを6月末までに入荷できると言った。

5月27日現在、厚労省のサイト「新型コロナワクチンの供給の見通し」のファイザー社のワクチンの項には、医療従事者に向けて、5月10日の週までに9,600箱を全国に配布するとあり、高齢者を含む住民向けに、6月28日の週までに62,710箱を全国に配布するとある。1箱は、1瓶6回接種分で換算すると1170回分になるから、それぞれ、約1123万回分、約7337万回分の接種となる。

厚労省の配布予定は、河野太郎の1億4400万回分のファイザー社のワクチン入荷予定には及ばないが、日本の65歳以上の高齢者約360万人が2回接種するに余りがある量のファイザー社のワクチンが6月末までに全国に配布されることになる。

それに、モデル社のワクチン接種が、今週から始まっている。

したがって、私や妻が予約できないことに、不思議に思わざるをえない。

官邸サイトには毎日これまでの接種の積算数が公表されている。
5月27日現在、医療関係者向けに11,232,000回分のワクチンが配布され、7,051,217回分が接種された。63%が有効に使われたことになる。高齢者向けには、26,723,970回分のワクチンが5月10日に配布され、3,543,883回分が接種された。13%しか接種されていない。

日本への入荷予定と政府の配布実績の差異はしかたがない。政治家は単に希望的観測を述べるものであるからだ。

しかし、配布実績と接種実績に隔たりは問題である。政府の努力義務の範囲と言わざるをえない。プロセス管理ができていないからだ。

菅義偉は人を怒鳴りつければ物事が動くと思っているようだ。報道によれば、ある地方自治体の長が総務省の役人から7月末までに高齢者のワクチン接種を終えろとの電話を受け取ったが、ワクチンの配布も 配布のスケジュールも 受け取っていなかった。

菅は厚労省ではなく、総務省の役人を通じて、ワクチン接種を進めとうとしているようだが、厚労省のワクチン配布スケジュールの各配布先はどのように決まっているのだろうか。都道府県の長が要求し、それに菅の意見を加味して、分配を決めているのではないか。

神奈川県内の6月7日までのファイザー社のワクチン配布スケジュールは、神奈川県のサイトにある。それによると、すでに、2997箱の配布が決められ、あと900箱を政府からもらえば、65歳以上全員の2回の接種分が確保される。

しかし、唖然とするのは、市町村からの希望に沿って配布するというやりかたで、恣意性、すなわち、不正が入り込むようになっている。すなわち、論理的思考がない。

6月7日までの配布で、寒川町と開成町をのぞいて、郡部すなわち町村の高齢者が2回を超える接種が受けられるようになっている。それだけでなく、3回を超える町村が5つもある。県平均の配布量は、高齢者ひとりあたり1.5回にもかかわらずである。

市部では、三浦市、伊勢原市、海老名市、南足柄市、綾瀬市が6月7日までに高齢者が2回を超えるワクチンを受け取ることになっている。

どう考えても恣意的な配布が、菅のおひざ元の神奈川県で起きている。

プロセス管理の立場だと、フローに処理できる以上の量を上から押し込み、なぜ接種が進まぬかと行政の長たる菅がどなっているだけに見える。

まず、ジャストインタイムのプロセス管理をしないといけない。どこかに、ワクチンが滞留するような、配布体制をとってはいけない。政府は、各地方にワクチンの保管・配送のセンターをおいて、接種の実態に応じて無駄なく配布しないといけない。個々の市町村の希望に合わせては、政治(選挙対策のこと)が入り込む恣意的な配布になる。無駄のないワクチン配布は データにもとづいて はじめて実行できる。

保管や配送は民間に委託しても、その実態を把握し、計画し、実施することを政府がしなければならない。

さらに不透明なのは、集団接種と個別接種とのワクチン分配が見えないことである。先日、日本医師会の会長の中川俊男が菅もうでをし、敬語を使っていたが、何かの取引をしたのではないか。日本医師会は7年前から、民主党支持の勤務医中心から、自民党支持の開業医中心にシフトしている。

かかり医とか言っているが、そんなきれいごとは市部では通用しない。近所の開業医は、3分医療をおこなっていて、実際には看護婦が診断、処置を行っている。どのようにワクチンが分配されたかを公表しないと、大量のワクチンが個別接種で市部で消えることになる。近所に医師会運営の緊急医療施設があり、インフルエンザーなどのほかの接種を行っているが、新型コロナワクチンの配布は来ていない。

公表の個別接種の開業医に、電話をかけても予約を拒否され、自分の顧客だけにワクチン接種を呼びかけている。私も妻も拒否された。

大規模でなくてもよく、小規模の接種会場を増やしてほしい。少なくとも、配分は公表すべきである。横浜市では、毎週、集団接種会場の予約の枠が月曜日の朝9時に追加されると、ものの5分でなくなる。また、集団接種会場は少ない上に、毎日、接種しているのでなく、各会場は週3日か4日で、数時間で接種をやめている。どう考えても、集団接種にわり充てられているワクチンの供給量は少ない。

ところで、「五大臣会合」とは何かと思って調べたら、西村康稔が言い出したことで、菅義偉総理、加藤勝信官房長官、田村憲久厚労相、西村康稔経済再生担当相、赤羽一嘉国交相のことである。新型コロナについての会議であるにもかかわらず、ワクチン配布担当相である河野太郎が外されているとのことである。

自民党はヤクザのような政党である。自分の利得のために戦っているバカの集まりだ。悪夢のような自民党政権を早く終えないと日本は地獄のようになる。

[補遺]
5月28日、地域の老人のストレッチの集まりで、個別接種の開業医は、新型コロナワクチンを持て余し、電話をかけるとほいほいと引き受けてくれるという噂を妻は聞いてきた。まだ、ためしていないが、横浜市の市政は自民党と公明党に牛耳られ、IRとか道義的にありえないことが起きるから、本当かもしれない。

[補遺]
5月30日、私と妻は新型コロナのワクチン予約ができていない。5月30日には、集団接種の新規枠が増えていないにもかかわらず、朝9時には、インタネット予約接続に苦労した。多くの人が無駄なログインをはかったのであろう。個別接種の電話番号は以前と変わらず、つながらない。予約枠がいっぱいになったのであろう。
とにかく、横浜市に配布されたワクチンはどこかに消えたとしか、思えない。

[補遺]
6月3日、妻は朝からテンションが高い。モデルナ社の大規模接種会場が予約できたからだ。1時間以上かかって、6月末に第1回目の接種に行くと言う。
しかし、私は納得いかない。5月24日から5月31日の2週にかけて、ファイザー社のワクチンが270箱が横浜市に配布された。315,900回分のワクチンであるが、集団接種会場の予約枠は増えていない。近所の集団接種会場のかかりの人に聞いてみたら、今日、502人に接種すると言っていた。
横浜市では、どこかで、たぶん、個別接種のどこかで、ワクチンが消えているのではないか。私はまだ予約できていない。

[補遺]
6月7日朝9時、新たな募集があるかと思って、パソコンから集団接種の予約に挑戦したが、予約枠が増えていず、予約できなかった。とくに7月以降に予約枠がはいっていない。横浜市は集団接種をやめたのだろうか。7月以降のファイザー社のワクチンの入荷が見込みが立たないのだろうか。

[補遺]
6月7日夜11時、個別接種でネット予約が可能な近所の小児科医院を厚労省の「コロナワクチンナビ」で見つけた。診察券番号が不要とあるので、早速、予約を試みたら、簡単に予約できた。妻が大規模接種会場でのモデルナ社の接種の予約日と同じ予約日で、近所でファイザー社の個別接種を受けることになった。
近所の老人夫婦が5月24日朝9時に苦労して予約した集団接種の予約日より、ずっと早く個別接種でき入ることになった。個別接種へのワクチンの配分が多く余っているとの私の読みが裏付けされたように思う。

「ものづくり」とは、自分で考える、仲間と話し合う、自分で工夫をすること

2021-06-06 22:08:50 | 働くこと、生きるということ
 
きょう1日、林晋・八杉満利子訳・解説の『ゲーデル 不完全性定理』( 岩波文庫)を読んでいた。ゲーデルの論文は難解である。林晋の訳注・解説がないと到底読めない。
 
それで、10年前のブログをここで再録する。
 
  ☆    ☆    ☆
 
土曜の朝のテレビで、子供の夏休みの体験を通じて「ものづくり」を伝えようとしていた。これに居心地の悪さを感じた。子どもたちが楽しそうでないのだ。「考えない、ただ耐える」という生き方を勧めているように感じた。
 
NHKのテレビで具体的に紹介していたのは、プレスで風鈴を作る、溶接で板金をあわせサイコロを作るの2つであった。
 
何年か前のテレビ朝日のタモリクラブで、電気溶接の技術をタモリと仲間が競う番組があったが、あの楽しさがなかった。
 
プレス、溶接は、鉄などの金属のもつ性質を利用したものであり、うまくできるには、その性質の理解と自分なりの工夫が必要である。
 
プレスは、板金に力を加えると自由に形をかえる金属の性質を利用している。例えば、板金をたたき続けることで、一枚の板からやかんのような3次元構造を作り出せる。しかし、工夫しないと、力を取り除くと形がもどったり、素材の品質とかける力の分布の具合でひびやしわができる。
 
溶接は、二つの板金を熱でとかし合わせることで、一体の構造物とすることだ。一体とすることで、ボルトで止めるより接合の強度が増すと期待できるが、板金を熱でとかす際に板金にひずみを生じる。丈夫な接合を作るには、熱の与えかたに工夫がいる。
 
「ものづくり」には試行錯誤を通じて自分なりの技術の創造が必要である。失敗を通じて新しい発見と工夫をするのが「ものづくり」であって、教えられたままを繰り返すものではない。
 
テレビ朝日のタモリクラブでは、皆でワイワイガヤガヤ言い合いながら、自分なりの技術を創造していたのだから、楽しいのだ。
 
この「よく見る、考える、仲間と話し合う、自分で工夫をする」は、製造業だけでなく、農業を含め、あらゆる職業で重要なことであり、働く喜びのもとだ、と思う。
 
「ものづくり」の推進者の中には、日本の伝統技術の延長上に現代の製造業があると単純化するのは誤りである。
 
日本でも、100年近く前、大正から昭和の始め、ヨーロッパのアール・ヌーヴォー運動に影響され、陶器、漆器など伝統工芸でも、家柄による支配に反抗し、「調べる、考える、自分で工夫をする」という技術革新運動が起きた。ものづくりは科学にもとづく創造的自己表現なのだ。
 
「考えない、ただ耐える」という「ものづくり」は、機械に置き換えられ段々少なくなるだろう。実際、技術的後進国だと思われていた国々が、製造業で日本より競争力があるのは、労働単価の問題ではなく、最新設備が次々と投入されるからである。
 
すでに確立した大量生産の現場では、「考え抜かれて設計された」機械が競争力を決する。おカネが人生のすべてである産業資本家には、最新設備は魅力的である。どんどんと、昔ながらの「考えない、ただ耐える」という仕事がなくなっていくだろう。
 
しかし、機械によってコンピューターによって「考えない、ただ耐える」仕事は少なくなることは、創造的な仕事に時間をそそぐ余裕が生まれることでもある。これからは、日本も、皆が複数の仕事を持つようになり、単調な仕事をシェアして生活の安全を確保し、残りの時間を、「試す、考える、仲間と話し合う、自分で工夫をする」創造的な仕事をする時代がきたら良いと思う。

数学のABC予想の証明論文は評価になぜ長引くのか

2021-06-05 22:17:25 | 脳とニューロンとコンピュータ


私が不思議に思っていることは、京都大学教授の望月新一が ABC予想を証明したとする論文が2012年にネット上に現れて以来、その証明が正しいかどうかの決着がついていないことだ。

京都大学の数学専門誌PRIMSは、2020年に論文査読が終了したということで、2021年3月の4日の電子版に論文が掲載された。PRIMS側の見解は望月の証明が正しいと確信したということだ。

いっぽう、現在、ウイキペディアの英語版では、望月の証明は証明になっていないという見解が書かれている。

物理では、実験で決着のついていない予想や理論(仮説)は いっぱいある。しかし、数学は、他の学問分野と異なり、実験もいらず、論理だけで正しいかどうかが示されると、私は思っていたので、この長びく評価にびっくりしている。

数学の証明は、ゆるされる推論規則で、仮定された命題から予想の命題を導くことである。実際には、その証明の過程をつぶさに書くとあまりにも膨大になり、だれでも推論できると思われるものは飛ばす。いっぽう、査読する側は、また、論文の簡略化への自分の基準をもっていて、その飛躍をとがめる。論文投稿者と査読側との争いの結果、読みやすい適切な長さの間違いのない論文が出版される。

この査読過程で、証明の飛躍部分で、反例が見つかれば、その証明は明らかに誤りである。しかし、数学の予想自体はいまだ反例が見つかっていないものであるから、証明の飛躍部分に反例を見つけるのは一般にはむずかしいことが多い。出版されてから論文の証明が誤りだったということが判明したことも 歴史上 幾度もあった。

したがって、査読に1、2年かかるのは不思議ではないが、今回はそれでも長い。査読をする研究者も大変だろうと思う。

コンピュータが証明を考えだすのはむずかしいだろうが、人間が与えた証明の飛躍点をコンピュータが指摘するのは比較的容易ではないか、と私は思った。そのためには、コンピュータが人間の書いた証明を、コンピュータが扱える形式言語に変換すればよいのだ。ここで、ディープランニング型のAIが使えるのではないか、と思った。

そう思って、最近、数理論理学やゲーデルの定理についての本を読んでいるが、どうも命題の扱いが思いのほか、理解しがたく、コンピュータが数学の証明の判定に役立つか否かに自信を失いつつある。なんか、ゲーデルの不完全性定理の証明も納得がいかない。形式言語の枠を超えている。

もしかしたら、AIはあくまで統計的判断の高速大量実行の手段であって、真理を扱う分野や、誰かの人権に関係する分野を扱うには不適切なのかもしれない。AIは間違ってもかまわないという考えにもとづく。

オリンピックはやめろ、菅義偉は身の程をわきまえよ、尾身茂の声を聞け

2021-06-04 22:30:39 | 社会時評


政府対策分科会会長の尾身茂が菅義偉首相と「権力闘争」をしているとメディアが報道しているが、これはオカシイ。なぜなら、尾身は別に首相になろうとしているのではない。単に、尾身は、新型コロナのパンデミック(感染爆発)の中で、オリンピックをやることはいかがなものか、と新型コロナ対策を担当する専門家として意見を述べたまでである。

逆に、メディアは尾身の捨て身の専門家としての責任感をほめるべきだと思う。

メディアから漏れてくるのは菅の激怒の声ばかりである。

「黙らせろ。専門家の立場を踏み越え勘違いしている。首相にでもなったつもりなんじゃないか」
「決めるのは俺だ」
「専門家に引っ張られるな」
「専門性ある意見を聞くためであって、五輪開催はこっちで決めるんだ」
「今回の尾身発言で東京五輪・パラ中止という世論の流れにならないか、心配だ」
「これ以上、厳しい意見が続くと分科会を開かせない」
「野球もサッカーも、クラスターは出てないじゃないか」

菅は自分を独裁者だと思っているのだ。自分の意見に反することは誰もしゃべっていけないと考えているのだ。民主主義社会では、言論の自由がある。すべての人に、自分の良心にもとづいて、真実を話す権利がある。

野球球団やサッカーチームの中では集団感染(クラスター)がでている。
オリンピックでは1万人に上る選手が各国から始まる。それに、海外からのオリンピック関係者とその家族が8万人やってきて、各会場で競技をみる。

オリンピックは桁がちがう「人流」を生じる。

医療関係者も選手のために動員される。オリンピックを維持するための日本の会場関係者、選手村関係者は10万人にのぼる。
その上に、パブリックビューイング会場を6カ所も作る計画がいまだに生きており、さらに、競技場を無観客にすることも決まっていない。
地方から東京への「人流」が生じ、それが新型コロナの変異株をもって地方に戻ることになる。

しかも、海外には、自国の新型コロナ感染拡大で来れない国も生じている。また、日本にきた選手は自国に変異株をもって帰ることになる。何が「平和の祭典」だ。盗人たけだけしい。

首相だから偉いのではない。理性が伴わない首相は厄介者にすぎない。厄介者の菅義偉をどこかに捨てるしかない。太平洋の底に沈めたらどうだろうか。

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