猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

菅義偉はイギリスでのG7でどう振るまえばよいか

2021-06-13 22:40:20 | 日本の外交

きょう、日曜日の朝から、イギリスでのG7でテレビが持ちきりである。菅義偉がG7に参加しているが、予測されたように、ひとりだけ孤立して、可哀そうだという報道である。

G7とは“Group of Seven”の略である。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本の7ヵ国と欧州連合の首脳らで毎年開催される国際会議のことである。

国連があるのに、一部の国の首脳らが集まって会議を行うのは、何らかの意図をもって集まる、分派活動である。今回のG7のねらいは、中国の封じ込みへの自由主義陣営諸国の団結の誇示であろう。

したがって、G7に出席した菅のこの態度を、欧米諸国への日本人の劣等感と受け取るのか、それとも、中国問題への日本人の態度不鮮明と受け取るのか、人によって異なってくる。

標準的日本人には、語学コンプレックスがある。しかし、変な発音の英語で、限られた語彙の英語でも、会話することができる。だいじな問題で、自分の答えをもっていれば、堂々としていることができる。言葉少なくして、本質を話せば、「極東の賢人」だと思われる。英語が話せなくても、G7での居心地はそんなに悪くない。

私は、英語に限らず、日本語でも、発音がはっきりしない。しかし、そんなことで、しょぼくれたいとは、思わない。

最近知ったのであるが、福沢諭吉の英語の会話能力は、日本語混じりで、とてもレベルの低いものだったようだ。彼を知る当時の外国人は、ユニークな英語を話すとして、だからと言って、バカにしなかったようだ。

今回、菅義偉は、もち札が、東京オリンピック開催の約束を守るということだけのようであった。中国への足並みを揃えようという他のG7諸国の首脳らと、関心が合うはずがない。

中国の台湾問題、ウイグル人問題をどう対処していくのか、基本的姿勢と戦略が定まっていないところに、菅の居心地の悪さがあったのではないか、と思う。宿題をやってなくて授業に参加する小学生の居心地の悪さである。

考えてみれば、G7諸国の対中国姿勢の足並みがそろっていないから、G7が開かれるのである。だから、足並みがそろわない理由を明らかにし、どのような選択肢があるか、示すだけで、菅は「極東の賢人」と思われただろう。中国が抱える問題点を整理し、中国との交渉役を日本が果たすというなら、歓迎される「極東の賢人」と評されるだろう。G7の他の諸国の首脳らも、戦争に持ち込みたくないはずである。

佐藤俊樹は、きのうの朝日新聞のインタビューで、日本は「大国」ではないと答えていた。日本は昔から「大国」でなく、また、今も「大国」でない。10年前、ドイツ大使がBSフジの『プライムニュース』にでて、ドイツは「大国」でないし、「大国」になりたいと思っていないと答えた。私は賢いと思った。「大国」であろうとすると、他国を従えようと思いだし、他国と協力し合えない国になってしまう。せいぜいが中程度の国であればよく、世界征服の野心をもつことは要らない。

日本はふつうの国として、誠実でつつましくあって、問われば、思慮ある答えをすれば良いと思う。

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きょうの朝日新聞の2つのオリンッピク反対論、星野智幸と佐藤俊樹

2021-06-12 23:20:51 | 社会時評

きょうの朝日新聞の『(ひもとく)強権IOCと五輪 巨利と政治が生む虚構の分断線』(星野智幸)も、『(インタビュー)中途半端な国、日本 社会学者・佐藤俊樹さん』も、コロナ禍で強行されていく東京オリンピックを批判している。

星野智幸は、オリンピック自体が きれいごと済まされない、問題を抱えていることを指摘している。紙の新聞の方には「巨利と政治が生む虚構の分断線」という副題がないが、星野は、まさに、これを問題としている。

私も、表彰式で国旗が掲揚され、国歌が流され、民族主義的幻想においおい泣くなんて、そんなオリンピックなんて、いらないと昔から思っている。政治家に利用され、金儲けに使われる素地をはじめからもっている。こんなオリンピックの広告塔になるスポーツ選手も情けない。無知のため利用されているのか、知っていて自分もオリンピックのうまみにあずかりたいと思っているのか、わからないが、自分が国民に勇気と希望を与えるなんて、言わないでほしい。その傲慢さも腹ただしい。

いっぽう、佐藤俊樹の日本社会への怒りも共感できる。コロナ禍にもかかわらず、なし崩し的にオリンピック開催が強行されていく日本社会への怒りである。

だいたい、日本国民は東京でのオリンピック開催に同意したことなんてもともとないのである。元東京知事の石原慎太郎が、悪事以外、何ごとも成し得なかったが、せめて、スポーツの大イベントであるオリンピックを東京にひっぱってこようか、で始まったことである。当時、誘致反対論が新聞紙上をにぎやかしていた。

国政に石原が転身したことで、当時の副知事の猪瀬直樹がオリンピック誘致を引き継いだ。そして、新知事の猪瀬と当時の首相の安倍晋三がタグを組んで、オリンピックを東京に誘致することに成功した。日本が、開催国決定の投票でお金をくばったことが、後で、フランス政府の調査で判明したが、誰の指示でお金が動いたか、曖昧なままになっている。

日本では、権力者がものごとをなし崩し的に強行していくところがある。それを佐藤が怒っている。なぜ、国民はそのことを許しているのかと。

菅義偉は、国はオリンピックを主催していないと言っている。IOCが主催するのであって、2次的には小池百合子の東京都であると言う。自分は、コロナ禍のオリンピックが安全に行われるように務めているだけであると言う。

では、怒りをだれに向ければ良いのか。しかし、私は「とにかく」怒るのが正しいと思う。国会に石を投げろ。菅に石を投げろ。小池に石を投げろ。橋下聖子に石を投げろ。丸川珠代に石を投げろ。安倍晋三に石をなげろ。デモだ。デモだ。

いっぽう、佐藤は感情に流されていけないと言う。私は人間の感情をだいじにすべきであると思う。

佐藤は言う。

《『五輪反対の世論』には2種類あると思っています。1つは、与えられた試算や研究者の意見など科学的根拠をもとに反対する世論、もう1つは、感情的な世論です。感情的に反対する人は、自分が推進する側になればインパールをやってしまいます。》

「インパールをやる」とは、1944年のイギリス領インドの都市インパール攻略を目指した「インパール作戦」のことである。この作戦は大失敗で、作戦に参加したほとんどの日本兵が退却の中で餓死や病死したのである。

「自分が推進する側になれば」は深い意味があるのか、それとも、言葉とおりにとれば良いのか分からないところがある。

この作戦を指揮したのは、「インパール作戦」に反対していた牟田口廉也である。本土の帝国陸軍大本営が「インパール作戦」を実施させるため、現地部隊の上層部を入れ替え、反対派の牟田口廉也を司令官に昇格させたのである。

このことを指すなら、「科学的根拠をもとに反対」というステレオタイプな解釈ですまないところがある。当時の軍人が組織の命令に逆らえたか、という問題がある。また、結果論から、作戦の失敗を評価している面もある。牟田口は攻略の戦闘で兵士を死なせたのではなく、攻略できないと判断して退却したのである。退却のなかで、兵士を死なせたのである。飢えからくる病死だが、退却路の中で、現地住民を襲って食料を奪はなかったのである。

作戦の失敗は、兵站の準備が原因といわれるが、食料を牛に積んで進軍したのである。実際には雨季のジャングルの中で、食料は牛ごと流され、食料を失ったのだ。もちろん、どの時点で退却するかの判断の誤りを指摘できよう。

組織に放り込まれた人間が、どのようにして合理的判断を押し通すか、まさに、人間の条件が問われるのであって、「科学的根拠」の一言ではすまされない。

自己を、合理的判断を押し通せないなら、組織に入るな。いじめに遭うだけだ。

したがって、「科学」と「感情」との対比で議論するのは、ちょっと表面的すぎないのでは、と思う。「科学」は、目標を実現するために、その成功の確率を高めるのに過ぎないが、オリンピックをするかしないかは、オリンピックが好きか嫌いかで決めてよいと思う。

「感情」は「自由意志」を導くが、「科学」は「自由意志」とは関係せず、「戦略的思考」に貢献するだけである。「戦略的思考」とは、筋道を立てて考え、準備した上で、目標を遂行することである。

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プログラミング教育の小学校必修化は子どもや教師の負担を増やすだけ

2021-06-11 22:46:33 | 教育を考える
 
小学校にプログラミング教育必修化するのは、「早期教育」や「臨界期」に対する誤解があるのではないか、と思う。早くから特定の専門科目を何か教育したって、別に良いことがあるわけではない。
 
創造性が求められないことなら、例えば、狂言や歌舞伎やヴァイオリンとかダンスとかなら、それにしかできない人間をつくることも、親のわがままからあり得よう。一芸に秀でた人材や伝統芸能の担い手をつくるために、才能がなくても早期教育で、なにほどかのことを成し遂げられるかもしれない。
 
それは、創造性も知性もない世界でのことで、ロボットのような人生を親のわがままから わが子に強要することになる。子どもの自由を踏みにじんでいることになる。伝統芸能を引き継ぐ必要性など、どこにもない。
 
しかし、小学校の教育必修化となると、その理不尽を国が大規模に引き起こすことになる。幼少期の教育は、できるだけ強制を少なくし、覚えることで子どもの潜在能力を無駄にしないようにしないといけない。興味の偏りはしだいに芽生えるので良く、本人が何に人生を賭けるかは、自己が確立してからで十分である。
 
「臨界期」というというのは、ある課題を学習するには、それを学ぶに充分に脳が熟していないと、努力が無駄になるということである。ある時期を過ぎるとマスターできないということではなく、ある時期にくるまではマスターできないということである。
 
先走りして学習しても なんの役にもたたない、子どものときは神童、大人になってタダの人になるだけ、ということである。
 
数学でも、フランスの20世紀の天才数学者、名前を忘れたが、戦闘機のパイロットが負傷して、入院しているとき、数学に目覚め、数学の勉強を始め、歴史的未解決問題を解決した。20歳になって、数学に目覚めても遅くない。
 
また、セオドア・カジンスキーは、貧しい移民の子で、天才と称せられ、25歳で数学の助教授になり、2年後にその職を突然やめ、山に引きこもり、自然を破壊する現代社会への怒りから、爆破犯になった。世評によれば、数学の助教授になる前の段階で確立した研究分野を専攻しており、すでに創造性を失っていたとある。
 
プログラミングは別に早期教育が必要な分野ではない。アルゴリズムに興味あれば、あるいは、数値計算の必要性を感じれば、あるいは、機械を自律的に動かしたければ、いつでもプログラミングを修得できる。変なヴィジュアルプログラミングをやらないほうが良い。
 
文部科学省は、次のようなプログラミングの早期教育の例を挙げている。
 
算数(第5学年)で、「プログラミングを通して、正多角形の意味を基に正多角形をかく」
理科(第6学年)で「身の回りには電気の性質や働きを利用した道具があること等をプログラミングを通して学習する」
総合的な学習の時間で「情報化の進展と生活や社会の変化」を探究課題として学習する」
総合的な学習の時間で「情報技術を生かした生産や人の手によるものづくりを探究課題として学習する」
社会(第4学年)「都道府県の特徴を組み合わせて47都道府県を見付けるプログラムの活用を通して、その名称と位置を学習する」
家庭(第6学年)「自動炊飯器に組み込まれているプログラムを考える活動を通して、炊飯について学習する」
 
どこがプログラミング教育なのかさっぱりわからない。文部科学省の役人は、実業界からのバカげた要請を蹴り返さないといけない。そうしないから、小学校教育は、やたらと意味のないことの詰め込みとなり、子どもの負担ばかりを増やす。(この前、小学校4年の算数にそろばんが入っていたのに、びっくりしてしまった。こんなものはいらない。)
 
文部科学省が実業家や政治家のいうことを聴いて行動を起こすと、教育でお金儲けをしようとする怪しげな人間たちが動き出す。
 
文部科学省、総務省、経済産業省が共同で作ったパンフレット『未来の学びコンソーシアム 小学校のプログラミング教育必修化に向けて』は、意味のない美辞麗句で埋め尽くされている。それは、教育のねらいとして3点をあげている。
 
① 「プログラミング的思考」を育むこと
② 情報社会がコンピュータ等の情報技術によって支えられていることに気付くことができるようにするとともに、コンピュータなどを上手に活用して身近な問題を解決したり、より良い社会を築いたりしようとする態度を育むこと
③省略
 
①の「プログラミング的思考」とは意味不明である。アルゴリズムのことを言っているのだろうか。「的」とか言っているから、コーディングを考え出すことを言っているのだろうか。全く意味不明である。
 
②の「気付く」とか「態度を育む」とかは、心を型にはめる「洗脳教育」にすぎない。IT産業が重要なものだと思いこませたいだけである。
 
③は全く無意味なことをほざいているので、省いた。
 
バカげている。バカげている。
 
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日本の学校教育はオカシイ、小学校のプログラミング教育必須化

2021-06-10 23:31:46 | 教育を考える
 
小学校でプログラミング教育を必修にして1年になる。小学校に英語教育を導入するも、プログラミング教育を導入するのも、実業界(経営者の集まり)の劣等感からくるものである。
 
ハッキリ言えば、実業界を牛耳る人たちはゴロツキである。徒党を組んで、企業の上にのぼり詰めた人が、自分の会社に入ってくる若者たちの能力がないから、海外市場で負けると泣き言をいう。派閥をつくって社内の競争相手を叩きのめすことはできるが、自分の経営能力ないから会社をつぶす。自分自身が英語の読み書きができないから、自分自身がプログラミングができないから、妙に劣等感をもって、小学校から始めよと、政治家や官僚に要求しているにすぎない。それに関係する教育産業がのっかってきれいごとを言っているだけである。
 
プログラミング教育は、日本の企業が「第4次産業革命」に遅れをとっているから、と文部科学省の報告書にある。ここの「第4次産業革命」とは、ソフトウェアのことをいう。
 
しかし、ソフトウェアが産業の基盤になることは、40年前からわかっていたことであり、日本にもプログラムできる人がいっぱいいた。40年前は、学校を出ていなくても、独学でプログラミングをマスターした人がいっぱいいた。自分で「一人ソフトウェアハウス」を起こし、自由人を自称していた。そのころのプログラマーの人件費は高く、1カ月100万円が相場であった。人件費は中国やインドが参加するとみるみる下がり、20年前には、1カ月20万から30万円になった。
 
収入から言えば、いま、プログラムをやる人は不幸である。
 
現在、IT業界自体は、大衆を煽るビジネスモデルの上に、お金を集めている。虚言でしか儲けが出なくなっている。
 
実業家が言いたいのは、製品の内部で働くプログラムを組む労働者を求めていることだろうが、企業の労働者がみずからプログラムを組むことは、30年前から、日本の製造業や装置産業では行われていた。企業経営者が仲間内での派閥争いに明け暮れ、プログラマーたちを優遇せず、彼らの労働意欲を失わせていたのが、現実である。
 
小学校から始めるか、中学校から始めるか、そんなことは関係ない。
 
プログラミングは、適正があれば、コンピュータとエディター(プログラム編集コンパイルソフト)があれば、いくつになっても、できるようになる。年をとっても、英語の聞き取り、発音ほどは難しくない。適性が、スピードの問題ではなく、試行錯誤する能力であるからだ。
 
プログラミングが小学校の必須となることは、子どもたちの成長に悪影響を与えるし、教師の負担を増す。
 
小学校の教師はピアノを弾けることが条件になっているが、それに英語の発音がきれいだとか、プログラミングを教えられるとか、の条件をつけると、ピアノが嫌いな教師が音楽を教え、英語が嫌いな教師が“I am a teacher”を教え、プログラミングがわからない教師がプログラムを教えることになる。
 
教科が嫌いな教師が子どもたちを教えれば、その子供たちも、その教科が嫌いになる。なぜなら、ピアノが好きな教師や、英語が好きな教師や、プログラミングが好きな教師なら、教材を離れ自由に教えることができる。それに対し、嫌いな教師は、教材に忠実に教えようとする。子どもたちを創意工夫ができない労働者にないようにする。
 
きょうは ここまでとして、あすは、文部科学省、総務省、経済産業省が共同で作った、『未来の学びコンソーシアム 小学校のプログラミング教育必修化に向けて』を批判したい。
 
[補遺]
書いているうちに、「労働者」という言葉に“worker"(働く人)と「賃金労働者」との異なる意味があるのに気づいた。政府が求めているのは「賃金労働者」である。
 
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新型コロナワクチン接種で 不要な副反応のリスクは避けるべき

2021-06-09 22:36:03 | 新型コロナウイルス

新型コロナのワクチン個別接種の予約が6月7日の夜11時にとれた。今月の29日に1回目の接種を、3週間後に2回目の接種をうける。NPOで、中学生、高校生、二十歳過ぎの若者を対面で指導しているので、自分はワクチン接種を受けるべきと思っている。明日は、NPOのスタッフのPCR検査が予定されている。

接種が現実的になると、ワクチン接種の副反応も気になる。数ヵ月前には、大した副反応はないとメディアで言われていたが、ワクチン接種が日本でも進むと、副反応が、ほかのワクチンより強いことがあきらかになってきた。

私がびっくりしているのは、先行した医療従事者のワクチン接種で死者が出たことである。本来接種を受けるべきでない体質あるいは体調の人が、同調圧力で接種を受けたのではないか、と私は疑っている。また、ワクチンの副反応は15分内に出るから、副反応がでたら、すぐ応急手当をすれば大丈夫だと言われていたが、それもあてはまらなかったのではないか。

私が気にあるのは、その後の報道がないことである。死者が出たのは、予診が不適切だったのか、副反応が出たときの応急手当がまずかったのか、確率的に死者がでるのは仕方がないのか、明らかにすべきである。

3年前、私は、カテーテル治療で、冠動脈の石灰化部分をドリルで粉砕し、ステントをいれるのに、冠動脈を突き破って開胸手術を要するリスクとそれで死亡するリスクを受容し、同意書を書いた。

このように、本来、リスクがあきらかにされ、メリットとリスクとを本人が天秤にかけて、接種をうけるべきである。集団免疫ができ、感染蔓延を終わらすには、60%台の接種率で良いのだから、同調圧力に流されるのではなく、予診を徹底させ、不要な苦痛、不要な死を避けるべきである。

TBS『ひるおび』でウィルス学者北村義浩が、事前にリスクがある体質の人を知るのは難しいと言っていた。アナフィラキシーを以前に起こした人は接種していけない、体調が悪ければキャンセルする、1回目の接種で大きな副反応が出た人は2回目の接種を受けない、そこまでしか、言えないという。かかりつけ医がリスクを判断するといっても、北村が言ったこと以上のアドバイスはできないと思う。

[補注]ファイザー社製ワクチンの接種を受けることができない人受けるに当たり注意が必要な人のリストがあるのに先ほど気づいた。広範囲の症状を挙げており、私も何箇所か該当している。予診票はそれらの一部しかカバーしていないのが、不可解である。予診票は接種の同意書を兼ねており、リスクを受容したことになる。

これまでの副反応の話をテレビで聞くと、2回目の接種での発熱が一番ありふれた副反応らしい。37.5度を超える発熱は半分の人に出ているという。私が今度個別接種をうける小児科医院でも、希望者には解熱剤を配るとなっている。

私は解熱剤を希望するつもりだ。そして、接種前の体調管理に注意し、万一、接種直前に体調を崩せば、接種を取り消し、再予約をする。だって、私の予測では、ワクチンがあまっており、そして、60%台の人が2回接種すれば、国民の集団免疫ができるのだから。

大企業では職場接種をおこなうことになっているが、同調圧力のもと無茶な接種が行われないように願う。不要なリスクを避けることは、決して悪いことではない。

[補遺]