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水戸の見て歩き

水戸出身・藤田東湖のゆかり

2020-06-18 20:44:09 | 水戸

 文化3年(1806)に梅香にある父・藤田幽谷の屋敷(梅香1-1-8)で生まれたそうで、現在、碑や銅像など(写真)があります。孫の藤田武雄(元・大成建設社長)が、昭和26年に敷地を市に寄付しそうです。その時市は、碑を建てるとともに、隣接地もあわせてそこに公民館を建設したそうです。すぐ近くには、幽谷誕生の地(36°22'20.4"N 140°28'14.1"Eあたり)もあります。

 

 徳川斉昭が行った追鳥狩(おいとりがり 軍事訓練)では、300石以上の者は馬を用意するようにとのことで、困った武士は多かったようです。前年に問い合わせた馬が、15両という大金のために購入を見合わせていた東湖は、しかたなくその馬を譲って欲しいという書状を書いたそうで、それが残っているそうです。初回に行われた追鳥狩の時のことなら、天保11年(1840)で、この年400石の側用人になったそうですが、そうとうな出費だったのでしょう。徳川斉昭の側近として、斉昭を支えて藩政改革の活動をしていきますが、弘化元年(1844)の幕府による斉昭隠居謹慎処分により、東湖も臣下として失脚したそうです。写真は第1回の追鳥狩が行われた地の本陣跡に建てられた常磐神社(元石川町 36°19'37.6"N 140°29'20.5"E)です。小さく鳥居が見えます。

 

 斉昭の謹慎処分で東湖も免職となり、禄を剥奪されて幽閉、蟄居(ちっきょ)となり、初めは江戸で、その後弘化4年(1847)に水戸の竹隈(たけくま)に移されたそうです。生誕地の住居は没収されたそうです。竹隈の住居は、現在のイオンのあるあたりのようです。江戸での蟄居時に「弘道館記述義」や「回天詩史」などが書かれたそうです。写真はイオンスタイル水戸下市店(柳町2-11-8)です。(後日 隣にある青柳病院が蟄居地であるという文章もありました)

 

 酒の好きだった東湖のが愛飲したのは、現在の清酒一品である、「甕の月(みかのつき)」だったそうです。一品の吉久保家に残る大福帳に、東湖の名前はないそうですが、現金払いだったのでしょうか。蟄居で禄が取り上げられていた時は、依頼される書を酒一本分で書いたとかいうそうですから、酒代だけはあったのかもしれません。小口の借用を依頼した手紙は数多くあるそうです。写真は吉久保酒造(本町3-9-5)です。

 

 嘉永2年(1849)に斉昭が藩政関与を許され、嘉永6年(1853)に幕府の海防参与になると、東湖も再び復帰して藩政等にたずさわったそうです。安政2年(1855)に、江戸小石川にあった水戸藩江戸屋敷内で安政の大地震にあい、母を助けるために戻った屋敷内で崩れ落ちた建物により圧死したそうです。徳川斉昭が「表誠之碑」と題字を書いた墓(写真)が、常磐共有墓地(松本町13-34)にある父・幽谷の墓左隣にあります。


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