板東西国秩父観世音菩薩(楊林寺(ようりんじ) 三湯町45)
慶応2年(1866)の建立ですが、楊林寺入口に移された碑で、「天下太平五穀成就、村内安全講中子孫長久」とあるそうです。
奉納板東西国秩父供養塔(鯉渕東信号近く 36°21'06.7"N 140°22'44.2"Eあたり)
「慶応二年龍集」とあり、18名の名前が下段に並んでいます。
奉念板東西国秩父観世音供養塔(筑地町実性院 36°22'19.3"N 140°22'31.4"Eあたり)
慶応3年(1867)とあります。これら上3つの碑ができたのは、幕末の大混乱期で、今でいえばコロナ禍の中を(余りいい比喩ではないかもしれませんが)、講のメンバーが大人数で信仰の旅に出て、その成就の碑を建てるといった感じなのですから、興味がかきたてられませんか。
秩父西国板東供養塔(十一面観音堂 鯉淵町481)
明治11年(1878)とあります。けっこう大きな字が彫られていますが、カビ?で見えなくなっているようです。
奉納板東西国秩父供養塔(鯉渕東信号近く 36°21'06.7"N 140°22'44.2"Eあたり)
明治23年(1890)とあります。上から2番目と同じ場所にある碑ですが、20年以上の隔たりがあっても、同じスタイルでつくられているようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます