幕末動乱期のキーワードであった尊皇攘夷(天皇を尊び、外夷(がいい 外国人)を打ち払う)という言葉は、藤田東湖が徳川斉昭の名前で書いた弘道館記の中に初めて出てくる言葉だそうです。写真は、それを略した「尊攘」と書かれた、弘道館玄関をあがった諸役会所の部屋に飾られた掛軸です。
弘道館記には「我が東照宮、撥乱反正(はつらんはんせい)、尊王攘夷、允(まこと)に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」とあるそうです。「わが徳川家康公は、乱世を正し、尊皇攘夷を行い、武に文に優れ、大平の時代の基礎を開かれた」といったところでしょうか。
この掛軸は、徳川斉昭の命で、松延年(まつのべ ねん 定雄)が安政3年(1856)に書いたそうです。松延は水戸の藩医で、弘道館医学館で行った種痘には、同じく藩医の本間玄調とともに携わったそうです。
嘉永6年(1853)に海防参与になった斉昭は、この頃、幕府での活動が盛んな時期だったようですが、翌年の安政4年(1857)には海防参与を辞任したそうです。そうするとこの掛軸は、斉昭幕政参画期の最後の頃に書かれたものということになるのでしょうか。
掛軸の左には、「安政三年龍集丙辰春三月奉」、右は「命敬書 臣松延年」とありますが、龍集(りょうしゅう)は1年のことで、年号の下に付けられる語だそうです。「丙辰(へいしん)」は「ひのえ(丙)たつ(辰)」で、安政3年の干支です。「命敬書」は「(藩主斉昭の)命により敬書(けいしょ つつしんで書く)す」と読むのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます