大寺院に属した小さな寺院を坊というようになり、その主を坊主といい、それが室町時代以来、僧の称として使われることが一般化したそうです。また、坊さんという言葉も、僧のことをいうようになったようです。坊という字が末尾についた名詞は、坊さんが意識されている言葉であることが多いのでしょう。
唯円坊之碑(唯円(ゆいえん)道場跡伝承地 河和田町36°21'42.4"N 140°24'42.0"Eあたり)
親鸞の弟子で、歎異抄を書いたという唯円が、はじめ道場をつくったのは、今の報仏寺(河和田町887)のある地から少し離れた地だったそうで、そこには「唯円坊之碑」が建っています。その後、廃寺になっていたそうですが、元禄2年(1689)に徳川光圀によって現在地に再興されたそうです。その報仏寺本尊の台座には、文明13年(1481)の年号や、「当旦那春秋(はるあき)尾張守」などとという文字があるそうです。唯円が本願寺で親鸞曾孫の覚如(かくにょ)を指導したという記録もあるそうです。写真は碑の題字部分です。
だいだら坊(水戸各地)
「だいだら」はたぶん大きいという意味で、坊は「法師、坊主」でしょうから、仏教伝来以後の名前なのでしょう。本来は「おおひと(大人)」に類する言葉だったようです。水戸にはだいだら坊伝説が各所にあるようです。だいだら坊は、朝房山(あさぼうやま)を今の場所へうごかし、桜川、大塚池や三野輪池などをつくり、食べた貝殻が大串貝塚になり、大足(おおだら)で生まれた等々です。写真は大串貝塚ふれあい公園(塩崎町1064-1)にあるだいだらぼう像です。
てるてる坊主(センチュリー21エムズ・エステート 南町3-4-20)
てるてる坊主がききすぎたのか、梅雨が去っていってしまったようです。「東京の俗に、女児の晴を祈る時に、紙にて人形を作りて、檐(のき)に懸くるもの。晴るれば物を供へ、或は、墨にて目睛(めだま)をかくと。」と大言海にあります。写真は今年のてるてる坊主を持ったみとちゃんです。
そば茶屋・風の坊(加倉井町1375-6)
郊外型レストランですが、以前立ち寄ってそばを食べたら手打ちだったのでびっくりしました。そばの切り方が上手だなと思いました。この場合の「坊」は、住まい、棲み家といった感じなのでしょう。
葱坊主(有賀町)
葱(ねぎ)の集合した蕾の様子が似ているので、「葱坊主」というそうですが、花が咲くと葉が固くなって食用に適さなくなるそうです。写真は、すでに花が開いてシベがたくさん出ているようで、坊主というより、いがぐり頭といった感じです。
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