大阪水曜ほっと集談会一世です。
最近ホームページからの問い合わせが増えている。
初めてお話する方と向き合う時につくづく感じることがある。
はたして森田は理論なのか?という素朴な疑問である。
集談会は、森田理論を学ぶ場所なのか?
異論があることは当然なので理論的に学ぶことが好きな方や得意な方はどんどん個人的に学んでほしい。
しかし集談会の参加者の中には理論的に組み立てることが苦手な私のような人間もいる。
初めてお話する方が語られる心のとらわれにはその人の責任とは無関係なことが多いと感じている。
いじめや緊張を強いられた機能不全家族、更にはアダルトチルドレンや発達障害や依存症など様々である。
その人の認識の誤りと単純化することは危険であり、時には酷でもあり心の負担を強いるだけではないのか?
私自身森田療法を理論として捉えたことは、一度もない。
そこに行けば、そのままのわたしで居られる場所が集談会であり、理論を学ぶ場所と感じたことはない。
とらわれのメカニズムなどは、確かに参考にはなる。
ただ、最近はこのように感じている。
理論的に解決しようとすればするほどあるがままから遠ざかるのではないか。
自助グループに、理論が必要なのか私は知らない。
家庭にも居場所を見つけられず、職場で吹く風は時に木枯らしのように冷たい。
コロナ禍で企業の業績が下がり職場の人員も削られ給与も下げられ、多忙な日々だけが続いている。
ただ、温かい言葉や優しいまなざし、静かな頷きによる共感だけでも充分なのではないか?
誤解を承知でもう一度言いたい!
理論を学べは問題が解決する、状況が改善するという錯覚を与えてはいけない。
これは、理論を学べば学ぶほど感情的に混乱し、理論で人と向き合うことで、人間関係を悪化させて自分を追い詰めた私自身への戒めである。
あなたの話を静かに聴かせてください。
あなたと出会えた御縁に感謝しています。
私が伝えたいメッセージは、ただそれだけです。
2022.1.27 一世 がんばろう 生活の発見会!