浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

我れ食べず人に施す母の愛
幼き我に布施教えらる

「御垂訓」

2018-08-20 08:29:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご講演ラジオ放送より

心の扉―1

主題:苦しみは自分の心の中から生まれる

 
先の続き・・・

そしてそれからはさせて貰おう、
尽くさせて貰おうと言う心でお婆ちゃんに
私の話をテープで聞かせて上げたり、
書いたものを読んで聞かせたりされたそうです。
その家にはお婆ちゃんの実の娘さんもおられるそうですが
段々とその娘さんより
奥さんつまりお嫁さんしか受け付けなくなったそうです。

それは奥さんが尽くしているほどには実の親娘でも
尽くしておられなかったから、
お婆ちゃんのほうで拒否反応が起きるのですね。
すっかりお嫁さんに頼り、実の娘より安心して
自分をまかせているわけです。
このお婆ちゃんが亡くなられた時、
生きておられた時より綺麗なお顔になられ、
何とも言えないほど安らかな表情だったと言います。

丁度、観世音菩薩の掛け軸のお顔のような、
また阿弥陀様のような、ああいうお顔ですね。
明るい雰囲気さえあります。
その奥さんから綺麗なお顔のお婆ちゃんを
送らせて貰いました。と、電話がありました。

そして至らないけれど、
自分に出来る限りのことをさせて頂いて、私も幸せでしたと、
喜んで訪ねて来られました。
相手に尽くすことは自分を本当に幸せにするのです。
自分を犠牲にすることが大事です。
犠牲と言うと、直ぐに私はあの人の為に
犠牲になってまで頑張ったのに、何の感謝もされない、
なんて馬鹿馬鹿しい。と、言うような場合を思い浮かべます。が、
それは本当の犠牲でも何でもありません。
損得勘定でものを言っているだけです。
本当の犠牲は愛です。

私はキリスト教の人間ではありませんが、
イエスはゴルゴダの丘で十字架に上げられ、磔になりました。
その時、イエスは神よ、どうぞこの者たちを罰しないで下さい。
正しい道を知らないだけですから、と、祈られました。
これが愛であり、犠牲です。
虐められようが、どんな目に合おうが尽くすことです。
この時、苦しみは消えます。


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「御垂訓」

2018-08-20 01:17:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


     講演 四
 
「かくのごとく 万物すべて生命にして 
     エネルギーの塊なることを悟るべし」
先の続き・・・
神様の光は私たちの思い、行いによって与えられます。
想念、行為が神の御心に沿った時に、与えられるのです。
神はどのように思って下さっているのか、
私たちがどのようにさせて頂いた時、
神様は最も喜んで下さるのかということを理解して、
自分が日々の生活で神の御心を行動に移したとき、
神の光が注がれます。

「主よ」「天上の父よ」「父なる神よ」と言いますが、
神は「汝ら座して我が名を妄りに唱うることなかれ」と、
やたらに私の名を坐ったままで呼んではいけないと
言われます。
これは、行動を起こせ、
行いに現わせということをお説きになっているのですね。
神様の光を我が心に頂いて、
日々の生活において自分が行動に移した時は、
自ら神の御子としての証しができます。
親に教えられたことを自分が行った時、
親は気に入ってくれます。

背いては何もなりません。
では、神様に背くとは、
つまり大自然に背くということですが、
ほんとうの神様の心に背くとはどういうことでしょうか。
これは神様に悲しい思いを与えることです。
悲しい思いを与える行為は何かといいますと、
繰り返し言いますが、
自分の心を自分で苦しめることです。
 
この五本の指のうち、どの指を怪我しましても痛いです。
どの指を針で突いても痛みは全身に感じます。
これと同じように、私たちがもし自分自身を苦しめますと、
大いなる神の意識に痛みを与えます。
ですから、どのようなことがありましても、
一時も早く自分の心の苦しみを切り替えて、
いつまでも苦しみの中に浸りきっていないことが、
神様に対する親孝行です。

神様を苦しめることがどういうことであるかを
もう少し細かく分けて言いますと、まず怒りの心です。
腹を立てること、そして妬み、謗り、恨み、憎しみ、
愚痴、取越し苦労、不安、恐怖、嘘をつく、盗みの心、
貪欲です。
この貪欲に捉われると、人の心は狂ってしまいます。
人間の心を苦しめる大きな原因は、
貪欲と愚痴と怒りです。


     ~ 感謝・合掌 ~


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