~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~
講演 四
前回は、生老病死の苦しみによって
自分自身の本性も忘れ去ってしまうのは、
人間の持っている煩悩によって曇るからだというお話をしました。
この煩悩のもとは、私たちの眼・耳・鼻・口・体の五官ですから、
人間はもともと煩悩の塊なのですね。
煩悩の塊であると思って間違いありません。
なぜかといいますと、この五官というものは全部苦しみの原因として
造られている道具だからです。
もともとこの五官は全部私たちの身を守るために
与えられたものですから、自己を中心としてものを見、聞き、触れ、
舌で味わって、都合の悪いものはみな避けるように造られているのです。
嫌なものは見たくない、嫌な言葉は聞きたくない、
口に含んで嫌なものは吐きだしてしまうのは、
すべて自己保存のために与えられた道具の働きによるのです。
ですから五官を通してものを見たり聞いたりしているということは、
「私は絶対に間違っていない」と思ってみましても、
すでに間違っているということです。
すでに自己保存と自我我欲という色眼鏡がかけられているわけで、
この自己を中心として見ることが煩悩になってくるのです。
煩悩から私たちがのがれる方法、
煩悩に振り回されないものの見方、聞き方、話し方とは、
常に自分という立場を離れて相手の立場に立って
物事を見聞きすることです。
奥様はご主人の立場に立ち、
ご主人は奥様の立場に立って常に相手の立場からものを
判断させていただくようにしますと、
自分から離れた見方ができます。
今日も熊本から来て頂いていますが、
この方はすでに十回以上内観といいますか、
内省の研修に参加なさったそうです。
しかしどうしても心が救われることなく、
つい落ち込んでしまうという苦しみを持っておられたそうですね。
一昨日の朝早く着かれて、一時間ほどお話のチャンスがありまして、
反省の方法についてお話させて頂きました。
それは相手の立場に立ってみるということですね。
これが今まで分からなかったと仰っていました。
相手の立場に立たないと、反省しましても絶対に救われないのです。
というのは自己を中心として反省しますと、
「自分が悪い、申し訳なかった、自分が至らなかった、悪い、悪い」と、
自分ばかりを責めるようになってくるからです。
自分自身の心が苦しくなりだんだん小さく委縮してきます。
その時、相手の方がどのような思いをなさったかと
相手の立場に立って反省させてもらい、
相手の方に迷惑をかけたのであれば、
その時迷惑をかけられた方がどのような思いをなさったか、
どのような思いで私という人間を見られたかと、
自分が相手の立場に立って自分を見るのです。
その時、できていない自分というものが見えてくるのですね。