古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『おかあさん 疲れたよ』より引用します。

2022年04月21日 18時08分13秒 | 古希からの田舎暮らし
 …… 昭和40年代は、ハイ・ミスが目立つ時代だった。ちょうど終戦時の昭和20年に、十代の終わりだった少女、二十代の結婚適齢期の娘たちにとって、結婚すべき対象の男たちはあまりにも数が少なかったのだ。
 彼らの多くは戦死してしまっていたのである。
 独身のまま年を重ねた娘たちは、昭和40年代に入って、ようやく、中年女といわれる年頃になっていた。  …… いわば国家の犠牲者というべきハイ・ミスがうようよいて、それでもそのころの老(ひ)ねた娘たちはみなつつましく、「白バラ」(むかしのバーの名前)に群れても羽目をはずしたり、しなかった。
 彼女たちは(自分の飲んだ分を)きちんと支払いし、ほんのり酔うぐらいでグラスを置き、トイレもひそやかに使い、 …… それぞれ身じまいすると、口々に、〈ママありがとう〉〈ごちそうさま〉と優しくいって、出てゆくのだった。

「 …… 揮毫して下さったのは市川房枝せんせいなの。戦争独身者の反戦モニュメント、 …… 」
 碑にむかって左手には、低い黒い石碑がある。何やらびっしりと書かれていたが、白抜きの字は読みやすいので、 ……  。

「1930年代に端を発した第二次世界大戦には、二百万にのぼる若者が戦場で生命を失いました。その陰にあって、それらの若者たちと結ばれるはずであった多くの女性が、独身のまま自立の道を生きることになりました。その数は五十万余といわれます。女性のひとりだちには困難の多い当時の社会にあって、これらの女性たちは懸命に生きてきました。
 今、ここに、ひとり生きた女の”あかし”を記し、戦争を二度と繰返してはならない戒めとして後世に伝えたいと切に希います。さらに、この碑が今後ひとり生きる女性たちへ語りかけの場となることを期待します。
   ……                              1979年12月 女の碑の会 

 田辺聖子の小説に付け加える言葉はありません。
 小説の題『おかあさん 疲れたよ』の「おかあさん」を、田辺聖子は〈あとがき〉でこう書いています。

 そして昭和が逝ったいま、私には、「おかあさん疲れたよ」というフレーズが、しぜんに唇にのぼってきたのであった。〈おかあさん〉というのは超越者である。
 これは超越者に対して甘えているのではなく、愚痴をいうのでもなく、過去の人生の起伏すべてが夢のごとくであったことへの、結論である。しかもそれはたぐいなく大きな慰籍の微笑を伴っている。  (中略)
  …… 独身女性たちの会と、その会員である女性たちのこと。 個々の人物のモデルはないが、「女の碑の会」として実在する。戦時中にちょうど娘ざかりだった若い女性たちは、戦後、過酷な運命に待たれていた。何百万という戦死者のうち、何割が未婚であったかわからないが、彼女らは結婚すべかりし相手を戦争に奪われたのだ。同世代の私は、可憐な彼女たちから目を離すことができなかった。彼女たちへの応援歌をうたいかった。
 
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