僕の家は幼い頃、なかなかビンボーであった。
60~70年代の日本では、ビンボーが当たり前だった。電話が入っていない家も多かった。そんな中で子供達は、自分よりさらにビンボーな家の子を認識しており、その子には駄菓子屋でおごってやったりしたものだ。
それは憐れみというより、対等な立場で遊ぶための知恵だったように思う。
「俺もたまごアイス食いたいよ~!」
と泣き出す奴が現れたら、それは即ち遊び~缶蹴りとか、立入り禁止区域への侵入とか~が中断することになるからだ。
おごるのも順番だったし、持ち合わせがないときには貸し借りが行われた。
子供の社会は意外としっかりしているのである。
外から帰ってくると、今度は家で妹と遊ぶ。
妹はリカちゃん人形を持っていたが、念願のリカちゃんハウスは永遠に買ってもらえなかった。そこで僕は厚紙や広告紙を使って紙製へなへなハウスを工作してやった。これで暫くリカちゃんごっこである。
「お帰りなちゃい。今夜はビフテキよう」
「ふむふむ。じゃあ葡萄酒をもらいまちょうか」
僕はミクロマンでリカちゃんの相手をしていたのだ。シュールであった。
ままごとが終わると、今度は妹が僕の遊びに付き合う。
またまた紙で工作だ。マジンガーZや光子力研究所を作り、広告の裏には設計図がひたすら描きつづられる。それからこたつテーブル上でロボット殺戮ごっこ。
それにも飽きたら、ポータブルプレーヤーで『サウンド・オブ・ミュージック』のサントラを聴く。二人でカスタネットやビスケットの空き缶を叩き、一緒に歌った。『帰ってきた酔っぱらい』もよく聴いた。
こうしておおむね夜8時半まで過ごす。なぜ8時半と覚えているかというと、『太陽にほえろ!』の終盤で母親が帰ってきた記憶が多いからだ。
ご飯を炊いて、鰹節&ショーユのネコまんまと味噌汁、漬け物。サバの水煮缶もよく食べた。どんな粗食でも親子で食べるというのはシアワセなのだ。
ややっ、意図せずしてつづく